愛とか嫌いなんだって サンプル
零日目 十一時 晴天
ぜんぜん思いつかない。
足跡一つない雪原の如き圧倒的な白の紙を確認し、それから部屋の隅に裸で佇んでいるトルソーを横目で視界に入れ、リエはため息をこぼした。遮光カーテンを開けた窓の先では太陽が影を伸ばし、青い昼の訪れを知らせてくる。
その日もいつも通りに目が覚めて、顔を洗って歯ブラシを口の中で往復させて、冷蔵庫の中から食べ物を選び、言葉を発することなく胃に収める。
そのあとは何をするでもなく、何かをしないわけでもなく、ただ時間が壁の向こうに染み込んでいくのをひたすらに眺めていることしかできなかった。
被服の学校に通っているリエは衣服を作ることができる。教科書通りのデザインを既製の型紙に沿って作ることは既にそう難しいことではないが、目下の悩みは長期休みに開催されるコンテストに向けた製作だった。
当然ながら、提出する衣装もモデルもヘアメイクの用意もすべて自分が行わなければならない。参加すると決めたものの、自分の都合や諸々依頼した友人との予定を調整していたら申し込み期日ぎりぎりに滑り込むことになり、気が付けば本番までの猶予は残り一週間になっていた。
ゼロから服を考えるのは、名前のない生き物の骨格を手探りで組み立てるようなものだ。頭の奥にぼんやりと浮かんだシルエットは時間の経過とともに少しずつぼやけていくから、消えてしまわないうちに手の中に捕まえるのに、強く握るほど指の間からざらざらとこぼれ落ちてしまう。
コンテストという場所で結果を残すためには、自分の「好き」や「得意」だけではどうにもならないことをリエはよく知っている。完成した作品が自分の思い描いていたものとぴったり重なった経験も、誰かからの評価が自分の想像通りの形で降ってきたことも、一度としてなかったからだ。
それでもリエは服を作ることができるし、作ることが好きでい続けている。自分の手を動かすのも、作りたいものを考えることも、何より友達に着てほしくて作ることもずっと好きだった。
だが学校に行って勉強を重ねるにつれ、どういうわけか何も知らない頃よりも服作りはややこしくなっていった。繰り出される膨大な課題たちを針とミシンとにらみ合いながら提出し、先生の輝かしい笑顔とともに「再提出」を突き付けられてきたぶん、手先の技術も表現するための知識も身についているはずだ。なのに作りたいという熱量と、実際に形にできるかどうかはいつも別の問題だった。
曇りなく晴れきった窓の外とは裏腹に、リエの頭の中には真っ黒な雲が居座っていた。今すぐに何かを思いついて形にしなければならないのに、思考の表面には明確な像が一向に浮かんでこない。形を持たない想像のかけらは点在しているのに、拾い集めようと手を伸ばすと蜃気楼のように溶けていく。
どうしよう。
視線を落とした先、フローリングの床はもう随分前から本来の木目を見せることをやめていた。色とりどりの布切れ、めくれた雑誌、もつれた糸、ポストカード、転がるボタン。それらが層になって重なり合い、まるで一つの新しい地層のようになっている。その存在はもはや資料なのか資材なのか、はたまた既に廃棄物なのかの判別すら意味を持たなくなっていた──正確には、意味を持たせることをリエが放棄したのかもしれない。
デザイナーが変わったばかりのハイブランドが打ち出した広告、コレクションで発表されるオートクチュールのドレスをまとったランウェイモデル、まるで新しい皮膚のように骨に沿うシルエットのスーツに、長時間歩くことなど微塵も考えられていない細く華美なピンヒール、せいぜいリップが一本しか入らないマイクロサイズのアクセサリーバッグ。
自分の想像をはるかに越えた、実際に着られるのかすら定かではないものを見て、タグに触れた指先が凍り付くような数字の値札を目の当たりにして、それでもなお「これは自分には関係ない」と思うことができずにいる。
ファッションという美しくて突き抜けていて、そしてどうしようもなく歪んだ世界に積み上げられた消耗品の中には、本当にごくまれに、目にした瞬間に体内の水分がすべて抜け落ちるような、呼吸の仕方を一時的に忘れるほどのものが潜んでいる。海の底に紛れ込んだ一滴の真水のような確率で、けれど確かに存在してしまう。
その感覚が痛みなのか、あるいは希望の一種なのかの区別はいまだ付けられていない。ただ自分のどこかに刻まれたそれを消すこともできず、知らず知らずのうちに人生をじわりと歪めていく要因になっている。
リエは自らの手を動かして頭の中身を形にすることで、かつて何者かに歪められてしまった自分の体をまっすぐに直しているのかもしれない。
コンテストは一週間後に迫り、製作に取れる時間はどれほど多く見積もってもその前日まで。前日というのは本来の提出予定を超過している日程で、つまり超えることを許されない本当の締め切りを意味している。
リエは己の部屋の隅で小さくなっている作業机を見た。今まで手を動かして生まれた輝かしい成果と悲しき犠牲の数々は、まるで海岸に打ち上げられた小さな魚の群れのように散らばっている。
この部屋の状況を前に、リエの中には「これから一生懸命頑張るぞ」と張り切る気持ちはどうにも湧いてこなかった。
こんな日はたとえ頭を逆さまにしても天啓は得られない。自称・神様が「俺も忙しいから~」と口角を上げてひらひらと手を振る様子を鮮明に思い浮かべてしまい、リエは衝動的にキャラメルブラウンの髪に両手を突っ込んだ。うまくいかないことはもう充分に分かっていたし、焦れば焦るほど手元は滑り、考えはほどけていく。
壁にかけた時計の針の音が普段より少しだけ強く耳に届いたが、それも何かの助けになるわけではなかった。しばらく出来の悪い石像のような体勢で固まっていたリエは、一つずつ解決していくしかない、と重苦しい頭を振って決意を示すように顔を上げ、意気揚々と踏み出した足で床に転がるボビンを思い切り踏んだ。
「…………」
足裏から背骨を伝い、脳を直接刺されたような痛みが一瞬で全身を駆け巡る。
痛い。
「うう……」
目の端から反射で涙がにじみ、リエは自分の心がチョコレートのようにぱっきりと音を立てて折れた音を聞いた。
「もうだめ」
絶望、という単語が頭の中でどんどん大きくなっていく。痛み、焦り、混乱、悲しみ──そのすべてが溶けて混ざり合って見分けがつかなくなった状態。好奇心に負けて箱を開けてしまったパンドラもこんな気持ちだったに違いない。
リエは喉からうめき声を絞り出して幽霊のように立ち上がると、なんの情感も宿らぬ顔で手に取った携帯端末の連絡アプリを起動する。目標を定めると画面も見ずに素早く正確に指先を操作してテキストを打ち込み、スタンプまで送信すると相手の反応も確かめずに必要物品をかき集め始めた。
向かうべき道の先に一筋の光もなく、目の前に暗雲に立ち込めてしまった時、頼りになるのは身近な他人しかいない。
パンドラの箱にだって底には希望が残っていたのだ。
見知った扉の前でリエは高らかに宣言した。
「おうち貸してください!」
リエの言葉が始まるのと扉が音もなく開いたのは、まるで約束でもしていたかのようにほとんど同時だった。
扉の向こうには枯れ枝のように細く、電柱のように背丈が高い男がいた。浅い眠りを途中で叩き起こされた猫のような顔は何かを塗っているのかと思うほど青く、その真っ青の肌を隠すように顔の半分と体にすき間なく包帯が巻かれている。
そんな相手をリエは怯むでもなく自然に受け止めた。軽く背伸びをしてから首を大きく反らし、奇妙な相手の顔を見る。普段は重力に逆らっている髪も今は素直に地面に向かっており、包帯で覆われていない顔には眼鏡という珍しい姿だが、ほとんどすっぴんで来たリエも相手の様子は気にしなかった。
肌よりも濃い青の髪を玄関扉のフレームに預け、男は包帯で隠していない右目を閉じ、そして時間をかけてゆっくりと半分ほど開ける。
数秒の中で眠っているかのような、長い長い瞬きだった。
「それは構わないんだがねぇ」
男が剥き出しの骨のような指で濃紺の髪を耳にかけると、がちゃりと金属音が鳴った。眼鏡のフレームがピアスと接触した音だ。
細長い体は斜めに傾いたまま、まだ意識の半分を眠りの中に残しているような男はリエが小脇に抱えた物体を指差す。
「トルソー抱えて来るのはやめたほうがいい」
「服を作りたいんだ。まだできないけど」
妥当な指摘をリエは無視した。
無視された男は、しかし意に介する様子もなく携帯端末を探り出すと、一つしかない赤い目に十三に近い数字を映す。
「なんでもやりたまえよ」
端末を服のポケットに戻し、目の前の少女に興味があるような、まるでないような声で許容した。
「ありがと〜! ございます!」
こうなるだろう、とほとんど確信していたからこその行動ではあったが、話の早い相手で本当に助かった、とリエは頭の帽子が落ちないぎりぎりの角度で一礼し、お邪魔しまーす、と間延びした声と共にまだ眠そうな薄べったい男の脇をひらりとすり抜ける。
「……ボクは寝ていてもいいのかな?」
奇襲は寝起きに限るのだ。
一日目 八時 快晴
友人であれそれ以上の相手であれ、他人の家は文化圏が違う外国のようなものだ。リエが期待したのはまさに自分ではコントロールできない環境による緊張と、他者の目がある環境だった。
許可を得て入ったものの、どこかぎこちなくなるのは空間の大きさに対して自分がひどく小さな存在であるように感じたせいかもしれない。リエの部屋とは比べるべくもなく広く白く、面積のほとんどを空白が埋めている部屋は住んでいる人間の匂いも温度も浮かんでこない。家主同様にひどく奇妙な空間だったが、その違和感すら今のリエにとっては都合がよかった。
リエはまず、抱えてきた荷物たちを机のある区画に置いて自分の巣を作った。緊張を望んでいても安住の地を求めずにはいられないのは人間の本能なのだろう。
いざ机に向かうと自然と背筋が伸びる。自室とは異なる頭の冴え、鳴りを潜めていた集中力がどこからともなく湧き出る感覚を忘れないうちに黙々と──時折うめき声が上げる以外は──汚れ一つない紙と向き合った。モデルから連想するテーマ、モチーフ、色、生地、装飾を手繰り寄せ、結び付け、白紙が晴れてデザイン画となったタイミングでそのまま倒れるように眠りについた。
らしい。
眠った記憶どころか机から動いた記憶すらなかったが、この状況から察するに家主がベッドに放り投げてくれたのだろう、とリエはやや見覚えのある天井をぼんやりと眺めていた。
それ以外は何もなかった。そう、何も。快適に保たれた室温と人の家であることを実感する匂いの中、何もない、という現実をどう受け止めるべきかリエは一瞬迷った。締め切り以外のことに割く時間も体力もないものの、無遠慮に転がり込んだ立場のリエの心情には若干の複雑さがもたらされている。
ともあれ、もう敷居は超えてしまったのだ。家主もいいと言ったことだし、とリエは遠慮やためらいを引きはがし、潔くなにもかも甘えることにして立ち上がる。
人生には思い切りが必要だ。
「おはようございます」
「ごきげんよう。早起きで関心じゃないか」
長い──長いと形容するほかない──背中を丸めて机に向かっていたスマイルがバネの反動のごとく首をのけ反らせて話すのを横目に、リエは寝起きでぼんやりとした頭のまま、昨日トルソーに磔にした作りかけの型紙を外しはじめた。
机の上に放置したデザイン画を確認し、今日の午後までに使う生地や資材の決定と調達方法の検討を目標に設定する。本当は眠りに落ちる前にすべて決めておきたかったことだが、作業の途中で「もう無理」と感じた時点でやめることにしたのだ。
リエは裁ち鋏の刃が布に沈み込む手ごたえと、繊維を切り離していく音が好きだ。鋏を持つ手から骨を通じて耳の奥で直接響くリズムがあり、他の音が聞こえなくなるくらい集中できる。だから早く裁断まで進めたいと思ってしまうが、疲労で鈍った頭のままでは単純なミスに気がつけずにどこかで大事件が起こる。特に生地は鋏を入れてしまえば二度と元には戻らないのだから、なおのこと慎重に進めなければならない。
一番時間がかかるのがこの設計の段階で、悪循環にはまる前に頭と体を休めるのは正しい選択だと思う。布を切ったら仮縫いをして全体の雰囲気を見て再度の修正と、ミシンで一気に縫い付けるまではまだ遠い。
両腕を伸ばしたリエは、やるぞ、と気合を入れ直し、それからなんとはなしに机に向かう家主を見た。
男がいる机上からはレシートのように細長い紙が、とぐろを巻いた蛇のように床まで垂れ下がっている。
「何してるの?」
「ボクは今自分の正常性を確認するためにキミたちの宇宙で言うところの地球から木星までの距離を計算していたところだ」
「……なんで?」
意味が分からない男の意図が分からない行動に、リエは眉をひそめて当然の疑問を呈した。
「この距離は地球が公転しているから算出時刻によって常に一定ではない……そして異なるからこそ正常であるという指針になり得るのさ、この世界がすべてボクの妄想で嘘だとしたらボクの想像を超えてくることはないだろうからねぇ」
イーヒヒヒヒと喉のどこから鳴っているのか判然としない声が響き、おびただしい書き込みがなされたレシートの正体を知ったリエはなるべく感情を乗せないようにへぇ、とかはぁ、といった意味を持たない音を発するに努めた。
「どうだいリエ、余弦定理の代入と展開によって解を導くカタルシスと数式の構造的な美しさを鑑賞しようじゃないか」
「うーん、今は無理かなー」
青い肌に包帯まみれの体、十人中八人が偽名を疑うスマイルという名前の家主は、その姿形からある意味で期待通りの「ヴィジュアル系バンドのメンバー」という、日々いかにして生計を立てているのか不明の男だ。
普段どのような仕事をして収入を得ているのか判然としないが、生活の拠点はいくつかあるらしい。その一つであるこの場所も人がひとり突然転がり込める程度には広く、趣味を控えているようにも見えない。リエもかつて不思議に思って「いつも何してるの?」と聞いたことがあるが、「頑張って生きている」と冗談なのか本気なのか判断できないトーンで返ってきたのでそれ以降話題にすることをやめた。
謎なのだ。
スマイルという存在はリエにとってはほとんどが謎で包まれているものの、どういうわけか興味を持たれて不思議な接点が続いている。それは摘まんだ線香花火の火を覗き込むような、いつ失うか分からない程度の興味のようでいて、声をかければ毎回嫌な顔ひとつせずに助けてくれる。それはよくない。
よくないというのは、こうして頼ってしまう自分がいるからだ。
「食べる物がない、と言い忘れたんだよねぇ」
この男の生活圏に食べ物がないことは経験上リエもよく理解していた。「あるといいらしいから買いました」と言わんばかりの冷蔵庫は新品同様の美しさのまま広々としたスペースを保っていたし、その空虚な空間にひとつだけ収納された石鹸はまるで展覧会の特別展示のようでリエは閉口したことを思い出す。
「備えというものもない。よくはないんだろうが」
透明人間は飲食を必要としない──わけではない。スマイルという人は食事の意味を知らない生き物のように食事意欲が極端に薄いのだ。きちんと一日三食の食事を欠かさないリエには生じたことのない感覚の相違は、いよいよ目の前の男との距離が遠いのだと感じさせる。
「大丈夫だよ、ご飯食べるくらいはあるから」
金銭の事情で製作が滞っているのではない、と暗に示す。
「いやはやこういう時はどこかに食べに行こうかと誘うべきなんだろうがさすがにボクの睡眠欲求が看過できないところにまで来ていてねぇ悪いがもう眠らせてもらうよ」
息継ぎの痕跡すら見当たらない圧縮された言葉は、しかし滑らかで聞き取りやすい。普段は文字通り世界から存在を潜めているのに、どういうわけかステージの上やメディアの前に這い出る仕事をしているだけはある、ということなのだろう。
「起きたらどこかで何かをしよう」
何も決まっていない約束を吐き出す口角は縫いとめられたかのように上がったまま、スマイルは音を立てずに椅子を引いて立ち上がると、長い一日を終わらせる眠りへ向かおうとする。
「あ」
瞬間、不意に頭の隅にあった記憶が彼の脳裏をかすめ、男は少女へ向けて首を傾ける。
「どしたの?」
不可解な動きを前に、リエも小首を傾げて問いかけた。
「ボクはベースより重いものは持てないんだ〜。今日は気絶しないでくれたまえ」
「ぐぅ……!」
「では、ご機嫌よう」
リエの奇妙な声を聞き流し、スマイルはその名前が示す通りの顔を残して扉を開く前に消えていた。
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