スライトリーデイズ
窓の外にさっきまで歩いていた道が流れていく。通い慣れた駅のホーム、コンビニの青い看板、小さいけれどおしゃれで人気のパン屋さん。それぞれが速度を持って過ぎ去っていくのを、私は電車の中からぼんやりと眺めている。
顎を上げた先にある色とりどりの広告たち視界に入れても、目立つように書かれた会社の名前もイベントの詳細も、何ひとつ頭に入ってこない。
右手に持ったままのスマートフォンが一度だけ短く震える。グループメッセージ。画面に灯る通知に指先を伸ばしかけて、やめる。
『──来週、空いてたら準備からお願いできたら助かる!』
ポップンパーティーのお誘い。
通知だけで読めてしまっている。私は「既読」を付ける前に画面を暗くすると、もう一度外の景色を見た。
断る理由は別にない。
行く理由も、本当はない。
行ってしまえば楽しいことは分かっているし、嫌だったことは一度もなかった。これまでもリエちゃんにしがみつくように参加して、行かなければきっと一生出会うことのなかった人たちと話をして、最後はお友だちになれる人だっているのだから。
ただ、あの中で私はちゃんと存在できているんだろうか、と考えてしまうのもいつも通り。
今回のパーティー参加者で知っている人はいつもの三人と、誘ってくれたリエちゃんだけ。リエちゃんは誰とでも自然に喋れるし、誰に対しても壁を作らない。でもそれは彼女の持ち合わせた性格の話で、私が自分で居場所を見つけられるかとは別のことだった。
自分の気持ちを動かせない。
いくつかの駅を過ぎて何度か車内の顔ぶれが入れ替わっても、私はまだ画面を開けずにいた。ずっと握りしめているスマホにはすっかり手の温度が移っている。
誘ってくれたのがリエちゃんでなければ、迷うことさえなかった。ただ「ごめんね、その日は行けないんだ」と文字を打って送信する──そういう断り方だけは、ずいぶん上手になってしまった。
でも、と私はもう一度スマホを持ち直す。
リエちゃんは私のことを気にかけてくれる一番の友だちで、私の迷いや弱さも受け止めてくれる。もし断ったとしても「そっか~了解!」と笑いながら返してくれることも分かっていた。その後で、まるで小さな宝物を分けるみたいに思い出をひとつひとつ話してくれることも。
そうやって分けてもらう時間は心地よくて、けれど彼女の笑顔に触れるたびに思い出す。
いつからか私はずっとぬるま湯に浸かったままで、安心と引き換えに立ち上がる力をどこかに置いてきてしまったことを。気がつかないうちに水面に沈み、溺れる寸前まで来てしまっていることも。
知らない人と話すのは苦手だし、大人数の空間ではどうしても息が詰まる。
でもリエちゃんがいて、「手伝って」と頼ってくれるのなら──その輪の端っこに、ほんの少しだけ手をかけてもいいのかもしれない。
行かなかったらこれまでと同じ、何も起こらないことだけは確かだ。
小さく息を吐いて、親指で画面をタップする。「行けるよ」と文字を打ちこんで、送信。
送られた自分の文字が表示された瞬間、取り返しのつかないことをしてしまったみたいに心がざらつく。でもそれは、「やってしまった」の焦りとは違っていて。
動きを止め、開いたドアからホームの風が流れ込んでくる。人々が乗り込む揺れに、思考を液晶から戻す。
送信してからしばらく、指先に残る感触にじっと耐えている。自分で決めて送ったくせに既読がつくのが怖い。返信の通知を確認するのが怖い。私はいったい何を怖がっているんだろう、と、自分でも正体のわからない不安に目を逸らしかけたそのとき、またスマホが小さく揺れた。
『やった~ありがと! 一緒なら絶対楽しいよ!』
まるで私の答えを知っていたような、いつものリエちゃんの文面。続いてちょっと気の抜けた、最近よく見かけるキャラクターの「ありがとう」スタンプ。
肩に、背中にのしかかっていた重さが一息で抜け落ちていくように、するすると解けていくのが分かった。
自分の単純さに少し驚きながらも、私はただ「楽しみだね」と小さく返すしかなかった。
やがて電車が減速して、聞きなれたアナウンスが響く。次は自分の降りる駅だ。画面を閉じて立ち上がる。
なんてことない夕方の風景が、いつもよりほんの少しだけ違って見えた。
もちろん、気のせいかもしれない──でもきっと、こういう気のせいが大事なのだ。
当日、家を出る前に鏡の前に立ち、深呼吸をする。服は昨夜のうちに決めておいた。リエちゃんが作ってくれたシンプルだけど形のきれいなブラウスにはお気に入りのお花を付けて、腰にストライプのスカーフを巻いたスカートを合わせた。トレードマークのベレー帽はリエちゃんとお揃いだ。
メイクはいつも通りナチュラルめに仕上げたけれど、まつ毛が下がらないようにきちんとベースをしてから塗って、それから目元にほんの少しのきらめきを足す。
最後にここ最近で一番お気に入りのリップを塗って、いつもよりほんの少しだけ、自信が持てる自分で外に出た。
パーティーの会場は毎回違っていた。駅から歩いて辿り着いたはずなのに、もう一度同じ道を辿ろうとすると一体どこにあったのか自信が持てなくなる。地図の上に存在しない場所に行くことをほんの一度だけ許されたような、不思議な感覚を残すのだ。
その日も例外ではなく、私とリエちゃんは「こっちで合ってるよね?」とスマホを見たり顔を見合わせたりして、半信半疑のまま道を歩いた。やがて見知らぬ建物の一角、普段なら気に留めない大きな無地の扉の前で、リエちゃんは「ここだ」と確信したように言った。
扉の前で深呼吸をひとつ。彼女が先に金属製のノブに手をかけ、私もそれにならってついていく。
それは重たい音もなくすっと開く。内側から広がる光景に、思わず足を止めた。
高い天井と、視線の限りまで続く廊下。まだ何も置かれていないのにどこか華やぎを予感させる空気は日常の延長線から明らかに外れているのに、不思議と圧迫感はなかった。
見えない幕がすでに上がっていて、これから始まるものを静かに待ち構えている舞台のようだった。
ふたりで数歩進んだ先に、見知った二人組を見つける。トレードマークのねこ耳とうさぎ耳がぴょこぴょこ動いて床に座り込んでいる。
「ミミちゃん、ニャミちゃん」
「あー! リエサナコンビだ!」
声をかけると、ふたりはぱっと顔を上げて手を振った。久しぶりー、と話すトーンは以前会った時からなにも変わっていなくて、私の時間が前回参加したパーティーのころまで一気に戻ったようにすら感じてしまう。
「聞いてよー! MZDがぜーんぶこっちに丸投げしてさぁ!」
耳を外側にぴんと立てて怒るニャミちゃんをどうどうとなだめつつ、ミミちゃんが「二人も手伝って~」と大げさに手をひらひらと動かして見せる。
「まっかせて! で、ふたりは今なにしてるの?」
リエちゃんが胸に手を当てて堂々と宣言すると、ニャミちゃんは手に持った風船に思いっきり息を込め、ミミちゃんが床に置かれた何かの骨組みを視線だけで示す。
「でーっかいバルーンアーチ作るんだって。でもぜーんぜん足りてないんだよね」
「ミミちゃんだっていいねぇ~って言ったじゃーん!」
もふもふと言い合うふたりを尻目に、まだパイプを組んだ骨組みだけのバルーンアーチは悲しげに横たわっていた。大きさに反して色とりどりの膨らみがまばらに点在するだけの完全なる未完成。
現場に漂うどうしようもありません、という様子に、リエちゃんは私とお揃いのベレー帽を整え直すと腕をまくってしゃがみ込む。
「やるよ~! 手を動かせば終わるんだから!」
「ヒューッ」
やにわに盛り上がる空気に釣られるように、私もその場に屈んで三人を覗き込む。
「私はどうしよっか? どこか大変なところ、ある?」
声をかけるとミミちゃんはちょっと困ったように笑って、手元のワイヤーを押さえたまま視線を上げた。
「向こうの机とか壁、途中で放ってきちゃったんだよね」
お願いできるかな~、と申し訳なさそうに指し示した先はおそらくメインとなる立派なホールだった。ここから見ても広さに気圧されるような空間で、そこに机や飾りが置かれていることが分かる。
「あとほんのちょーっとなんだけど」
言葉に添えられた苦笑いから、きっとニャミちゃんに急に呼ばれて飛び出してきたのだろう、と察せられる。
「じゃあ私、終わらせちゃうよ」
私が立ち上がると、ミミちゃんとニャミちゃんが「助かる~!」と声を揃えた。このふたりの仲の良さを見ていると、自然と顔がほころんでしまう。
「あとで行けたら行くから~!」
そんな確度の低い約束の言葉を背中に受けながら、私はホールへと足を向けた。
絨毯に足を置いて、ホールのあまりの広さに頭の中ごど一瞬止まってしまう。天井はエントランスより高く、床は冷たもつややかな光沢を帯び、天井から吊られた豪華な照明が影一つなく光を落としている。
軽く見渡してみると、ミミちゃんの言葉通りに飾り付けの終わらないテーブルがぽつぽつと並んでいた。クロスの端が垂れたままのもの、片側だけが固定されていないもの、半分だけセッティングが終わった長机。
ホールの中央で立ち止まり、私は片足を支点にぐるりと一回転。
誰もいない。
壁際の窓から差し込む光が白い空間の温度をいっそう下げているようなこの場所に、たったひとり。
一切の喧騒から切り離された場所は一人でいるには大きすぎて、まるで自分が小さくなってしまったんじゃないか、という錯覚に囚われる。
私はしばらくそのまま立ち尽くして、ただここにいるだけの自分がいっそう場違いなように感じていた。
軽く頭を振る。テーブルの端に置きっぱなしのクリップや、半端に減った飾りの袋が視界に入る。
やることは、ある。
意識的にそう自覚すると指先に少しだけ力が戻って、まずは椅子の背に掛けられたクロスを手繰った。
ぱちんと音を立てたクリップから手を放すと、広がった布地はぴたりと張り、波打っていたクロスがすとんと静かに落ち着いた。
「よしっ」
やり切った、と思うと小さく、しかしはっきりと声が出た。
腕を上げ、背筋を伸ばしてもう一度ホールを眺める。お行儀よく並んだテーブルの列に真新しい白布が整然と張られている様子は、まるで披露宴会場のようにも見える。日の光を含んだクロスが一斉にこちらへ反射して、壮観というほかになかった。
けれど、視線を移した先にほんの少しだけ違和感がある。
列の端に目をやると、クロスの角がわずかに浮いていた。普段なら見過ごしてしまうようなほんの些細なゆがみは、整った白の連なりの中で妙にずれて見える。
私は近づいて、その生地の端を押さえてみた。クロスは大人しくぴたりと平面に沿う。手を離せば、当然のように生地もまた離れていく。
一度、まばたきをする。たった一か所のずれなんて、誰も気にしないかもしれない。けれど、誰かがが近くを通ったり、机の上のものを取るたびに、それはどんどん大きくなっていくのかもしれない。
「クリップ……」
まだあったよね、とテーブルの下を覗き込んだり備品の袋を確認してみたけれど、どこにも見当たらない。たくさんあったはずのクリップを全部使い切ってしまっていた。
たったひとつだ。きっと大丈夫だろう、とも思う。不安ごとの九割は起こらない、とインターネットのニュースでも見たことがある。
でも、もし何かのはずみでたわんだ布に花瓶や料理が引っかかってしまったら──それはちょっと、あまり考えたくない光景だ。準備を担当したのが自分なら、なおのこと。
心臓が大きく跳ねる音が喉から聞こえた。
私は顔を上げる。ホールから続く廊下の奥にもう一室あることを知っていたからだ。小さなガラス窓が付いた扉の向こうからはおいしい匂いが流れてきて、誰かがいるのだろう、という予感もある。
ただクリップを取りに行くだけだ。誰かがいれば聞いてみればいいし、いなければそっと探させてもらえばいい。そう、明確な目的を解決しに行くだけ。私はそう自分に言い聞かせて、ホールに敷かれたふわふわの絨毯から足を剥がした。
開いた先のキッチンはもはや当たり前のように広かった。足を踏み入れた瞬間、空気がひやりと切り替わったのがわかる。
腰の高さほどもあるステンレスの作業台が、等間隔にいくつも並んでいる。光を受けて鈍く反射する天板には指紋一つなく、まるで触れることをためらわせるほどの無機質さ。
壁沿いの一面には同じくステンレス扉の業務用のオーブンや冷蔵庫がずらりと並び、まるで工場ように組み込まれていた。余計な飾りも段差もなく、ただ必要なものだけが合理的に配置されている。
清潔さと整理の行き届いた空間は、家庭で見慣れた台所の延長線では到底ない。むしろ実験室、と言ったほうが近いだろう。
けれど、満ちている空気は冷えたものばかりではなくて。
ふと鼻をくすぐったのは、焼き上がったばかりのパンらしい小麦の香り。銀色が占める光景の中に漂うその匂いはどこかアンバランスだけれど、ふわりと安心という温度をもたらしてくれている。
その真ん中に、ひとり。
背の高い男の人だ。白いエプロンを腰に巻いて、シャツの袖は軽くまくっている。緑色の髪から覗く尖った大きな耳の存在で、私とはまったく違うところから来た人なのだと分かる。
手元には大きなまな板、切り揃えられた具材の横にガラスボウルがいくつかと、開いたラップ。角度のついた斜めの立ち姿。調理台の前に立つ横顔は、表情だけが長い前髪に隠れていた。
一歩足を踏み入れた私は、自分の靴音が妙に高く響いたような気がして思わず息を浅くした。
その音が鳴る前から彼は私の存在に気がついているようだったけれど、すぐに振り返ることはしなかった。
私も、すぐには声をかけなかった──かけられなかった、が正解。知らない人に声をかける。たったそれだけのことに、すごく勇気がいるのだ。
聞けばすぐ解決すると分かっているのに、出そうとした声は喉の奥で押し留まる。背中の奥で小さな震えを感じ、音にならないかすれた「あの」から続きが出てこない。
全身が緊張を覚えている。私は意識して深く息を吸うと、頭の中で自分を落ち着かせる言葉を繰り返す。
──ただ、クリップを借りに来ただけ。
「なんか探してる?」
自分のものより先に響いた音に、反射的に肩がわずかに跳ねる。
それは背を少しひねり、こちらに顔を向けた男の人に違いなかった。勝手に思っていたよりもずっと穏やかな声に私は勢いのまま頷いて、いつの間にか手のひらに食い込んでいた爪を開放する。
「は、はい、あの」
決して偶然ではなく、気を遣ってもらったことくらい分かる。安堵と焦りが入り混じって、足の裏から冷たいものと温かいものが同時にせり上がってくるような感覚。
「……あの、クリップを、探してて」
余計な力を抜いて胸に溜まっていた息を吐くと、詰まっていた言葉が自然に流れ出る。
目の前の人は、クリップ、と確認するように呟く。
「袋止めるやつッスか? そのへんで見たかも」
彼はゆっくりと手を拭くと、立ち位置から少し離れた作業台の下を長い指で指し示す。
背格好の印象からは拍子抜けするくらい軽やかな口調に、空気の温度がすこしだけ変わったような気がした。
私が示された棚を覗き込むと、いくつか透明のプラスチックケースが並んでいて、その中のひとつ、確かに金属のクリップがまとめて入っていた。
「あった」
声を出した、と自分でも意識しないくらいの音量だった呟きも、彼の元へはちゃんと届いたみたいだった。
「それで大丈夫ッスか?」
「はい。多分、これで」
ありがとうございます、と振り返ると、彼はすでに元の作業に戻っていた。食パンの表面に薄く滑らせるバターナイフの動きは静かで手早く、刃先が生地をなぞる小さな音だけが静かに鳴る。
バターが薄く溶けてパンに広がる香りの中、私は今、話しかけようと思っているんだろうか、と自問する。
クリップを探すだけだったはずなのに、声をかける準備をしている自分がいる。
どうしてだろう──さっき、先に声をかけてもらったから? 彼の仕草が妙に落ち着いて見えたから?
答えがない疑問だ。答えは出ないけれど、足元に感じていた冷たさはもう分からなくなっていた。
少しだけ、今ならこの人と話せそうな気がする――そう思える瞬間が、胸の奥でひそかに広がっていた。
背中越しに動きをただ眺めているだけで、いつの間にか自分の呼吸が整っている。
「お料理の担当……なんですか?」
私の声に、彼は手を止めずに少しだけ笑った。
「そう。でも思ってたより多いッス」
声には少し混ざった照れが口の端に柔らかく残っているみたいだった。バターナイフが次のスライスに触れると、刃先はあいかわらず迷いなく、するするとバターを滑らせていく。薄く伸ばされたバターは生地にすっと馴染み、表面に小さな光の帯を作った。
「サンドイッチ、全部手作りなんですね」
「一応。人によって好みあるからなるべく偏らないようにするんスけど、味濃いの多めに」
指の爪の形、ナイフを握る角度、手首の返し方。どれも無駄がなくて、仕事の呼吸を知っている人の所作だった。手際が良さと整頓されている作業台の様子からも、料理が好きなのだと充分に滲んでいる。
「ポップンパーティーに参加する人、ですよね」
私が小さく呟くと、彼は手を止めずに頷いてほんの一瞬だけ肩を竦めた。表情は長い前髪で隠れているけれど、少しだけ笑っているのも分かる。その距離感の取り方がひどく自然で、胸の奥のわずかな緊張が思いがけずに緩む。
「そッス。今はメシ係」
力仕事しに来たんはずなんスけど、とラップに包まれたパンたちの上で包丁を引く。刃がパンに飲み込まれると、ぱり、とビニールが裂ける音が小さく鳴る。
切り口から姿を現したのは淡い緑のアボカドとほぐれたツナ、そして柔らかな黄身が輝く卵。マヨネーズソースに絡んだそれぞれの色が重り合い、層ごとに瑞々しい光を帯びている。
ふわりと卵とツナの香りが立ちのぼり、少し遅れてアボカドの青い匂いが追いかけてくる。まるで切り分けられるのを待っていたかのようにきれいに並んだ具材たち。それらを受け止めるために焼かれたパンはしっとりと白く、端に残る焼き色がほのかに香ばしさを添えていた。
その断面を、どうやら私はじっと見つめていたみたいだった。はっとして顔を斜め上に向けると、彼と顔の向きが合ってしまう。
その角度のまま、私だけがほんの一瞬、空気の糸を張った。
なにしろ相手の口元の角度は自然で、何かしらの意思は微塵も感じられなくて──どちらかというと、とびきりのヒマワリの種を前にしたハムスターを眺めているような。
そんな様子だった。
「おいしそう?」
からかうでもなく、むしろ確かめるような声色に私が慌てて頷くと、彼の口角が少しだけ上がった。
「じゃ、ちょっとだけ手伝うの、どうッスか? 一切れあげるんで」
低すぎず高すぎず、ちょうどよく柔らかいトーン。その言い方がやっぱり穏やかで──しかも、条件があまりにも子どもっぽかったものだから──顔から力が抜けるのを感じた。ゆるりと溶けた唇の端から小さな笑いがこぼれて、頬の内側に残った温度が静かな満足に変わる。
キッチンのステンレス台は冷たく硬いのに、彼の言葉の温度はそこに触れることなく私に届く。
唐突、といえば唐突な提案だったけれど、冗談でも強制でもないことはわかる。私は少し間を置いてから「うん」とだけ頷いて、こういうとき、すぐ返事できるんだ、と自分のことが少し意外だった。
よし、と呟いた彼は冷蔵庫から果物が山と盛られた大きなボウルを持ち出す。リンゴにオレンジ、キウイ、パイナップル、レモン。見ているだけで甘さや酸味の香りが頭の中に広がるようで、思わず鼻の奥がくすぐられる。
彼はボウルを抱えたまま軽く身をかがめて私の目の前に置く。その中からオレンジとレモンをひょいと掴むと、作業台の上にころりと転がしてみせた。
転がる果物の色と形が、作業台のステンレスに鮮やかに映えている。
「これ、ひと口サイズに切ってほしいッス」
彼の隣にスペースを開けてもらった私は、そっと包丁を構えた。まずはオレンジの厚い皮に包丁を当て、線を引くように跡を残す。
そして見事に斜めに入った跡を視認した瞬間、私はぴたりと手を止めた。まず、こんな風にオレンジを切ったことがない。包丁に不慣れなわけではないけれど、自信があるわけでもない。
「私、得意……なわけじゃないから、綺麗に揃えたりは難しい、かも」
オレンジから目を離さず、私はつい、言い訳のような言葉をこぼす。指先に伝わる果皮のざらりとした感触と内部のしっとりとした果肉の重みが、緊張と集中の中で妙にリアルだった。
「いや、オレが柑橘系ちょい苦手なんで。だから助かるッス」
それこそ意外な言葉に、思わず隣を見上げてしまう。彼の顔は先ほどパンを切っていたときと変わらない。
「苦手、なんですか?」
「そう、苦手なんス」と彼が軽く笑い、片方の手でナイフの先でバターをすくって次のパンに向かう。
「オオカミだから」
繋がった言葉は、まるで通りすがりの天気の話みたいに自然だった。
「オオカミ」
「狼男、って分かる?」
そう言った彼が顎を大きく動かすと、開いた口腔からは確かに人のものよりも長く鋭い犬歯が見えた。
尖った耳よりも明らかな、普段の私がいるのとはまったく異なる世界の印。
「えっと……、はい。このパーティ、色んな人が来るから」
過剰な反応にならないよう、意識してなるべく平坦なトーンを保つ。
姿かたちが違う人とたくさん会う中で、私の「ふつう」と違っていて驚くこともあった。徐々にその回数が減っていくのはいいことだ、とも思う。
見た目の特徴はただの事実で、相手がどういう人かを決める材料にはならない、と分かるようになった━━少なくとも、その牙が私に向けられるまでは。
同時に、知ったようなこと口ぶりだったかも、と内心で息を呑む。相手のことをすでに理解したような態度を取ってしまったかもしれない、と考えると、自分の声や振る舞いが不安定に感じられる。
いつまでも、このバランスの取り方が楽になることはない。
私は隣の様子を視線だけでそっと伺う。彼は切断を終えた刃を止めたまま、目の前の断面を見つめているようだった。長い前髪の隙間から、ほんの少しだけ表情がのぞく。
驚いたような、──それから、安堵の色。
「そうッスねぇ」
互いに分かり合えたような、小さな静寂だった。
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途中です(ごめん) 今後どうにかなる予定です