Something feels off , Somebody hold my hand

 自動ドアが開くと条件反射で呪文を唱える。パブロフの犬もこんな気分だったのだろう。
「いらっしゃいませ」
 外の風と共に入ったきたのは人間だった。
 銀の髪を首の付け根まで伸ばした、世界中の美を掛け集めて作ったような目鼻立ち。
 男だろうが女だろうが、老人だろうが若者だろうが、造形が群を抜いて整うといずれでもないような存在になるらしい。
 辞書の「完璧」という項目には、この顔が載っているのかもしれなかった。
「失礼」
 低音は静かだったが、奥に長い年月を沈めたような圧があった。次いで革靴が音を立てて床を踏む。望む望まずに関わらず、容姿によって世間に振り回されてきた苦労を感じさせない歩き方。
「花束を頂きたいのだが、頼めるだろうか」
「ご希望はございますか」
 男は背筋を伸ばし、首を巡らせて店内を見渡すと、燐寸棒が三本は乗るだろう長いまつ毛が目に影を落とした。その影だけで時を止められそうな横顔で目を細める。
 赤い瞳は整っているというより、瞬きを忘れるほどに磨かれすぎている。
「私が贈るにふさわしいものを」
 近年稀にみる奇怪かつ面倒な注文が、まるでなんでもないことのように飛び出してきた。
「かしこまりました」
 一礼していったん引く。目的もなく開けた冷蔵室の扉から冷えた空気が顔面に訪れる。
 注文の主にふさわしいものとする場合、まず注文者がどういった存在かを認識する必要がある。
 初めて見た相手。正体は不明、外見は完璧。
 無理だ。であれば、外見や装いから推察していくほかない。
 青みがかった銀髪に、濁りのない赤い瞳。絹のような光沢を放つ生地が薄い体に馴染んだ洒脱なスーツはフルオーダーのサルトリア仕立てだろう。贅沢な着心地を予感させる。
 足元は丁寧に履き込まれた皺と艶を湛えるアルゴンキンフロント。欠点のない装いの中、ジャケットの内側で揺れる銀十字だけが装飾の気配を残していた。
 そこまで観察し、視線を花材に切り替える。もういい。この手合いは己の美学を持った怪物だ。
 嫌だ。
 面倒くさい。
 自分で考えてほしい。
 聞く必要がないことなど見れば分かるが、市井の花屋である自我が口に喋らせた。
「ご予算はいかほどですか」
「ご予算」
 相手ははじめて聞く言葉を舌の上で転がすように笑った。
「気にしなくていい」
 想像通りの回答に聞いたことを後悔し、気のせいではなく頭痛がする。
 都度家を飾りに来る花屋くらい持っていそうなものだが、なぜこんな店に来たのか。
 
 花を選んでいる間、男は人工的な照明に照らされた地味な花屋の広くもない内装を見て回っていたが、そのうち飽きたらしく花を包んでいるカウンターの前、つまり私の前へと立った。
 対面からほんのわずかに流れてくる、流動的なスエードと、濡れた岩から外したばかりの石英のような匂い。温度を感じないそれは無菌的で、ありもしない不安を掻き立てられる。
 視線を外したまま、私は店中の白い花を集めて黙々と花束を作っていた。茎を長く残して切る。巻きの強い薔薇の棘を落とす。薔薇とダリアを敷き詰めた圧倒的な白の画面に差し込まれる真っ赤なアネモネ。
 白は清廉潔白などと称されるが、時に強く暴力的だ。そこに少しばかりの毒気を混ぜれば、怪物に見合う花になる。
 花を手に取るたびに男の視線が皮膚に刺さる。この男が品定めをしているのは花ではない。それを選び、組み合わせる私の思考を顕微鏡で覗き込むように観察している。
「極めて個人的な質問をする。答えたくなければ結構」
 包まれていく花たちから視線を外さずに男が言った。こちらは視線だけをその美貌に返すことで相槌とする。
「君はなぜ花屋を?」
「花が好きなので」
「好きなものを売るのは辛いだろう」
「ええ」
 男は満足したのか、それから再び黙って花束になっていく草花を眺めていた。動作の一つ一つが洗練されすぎていて却って不気味だ。
 果たして、相槌だけの答えは会話と言えるものだっただろうか。私は黙ってダリアの雄しべを指先で摘み取る。花粉がこの完璧な男の袖を汚せば、何か言われるかもしれない。
 この男が持ち込んだ無菌的な空気に、店内の植物たちが一斉に呼吸を止めているような気がしてならなかった。
 
 いつまで経っても花束にリボンを巻くのは気に入らない。好きではない。淡い白の光沢を一周だけ巻き付け、出来上がったのは豪奢な白い花たちの中に沈み込む赤が特徴的な花束。
 白にほんの少し寄り添う赤は、皮膚を突き破られた首から滴る赤に似ている。
「吸血鬼に噛まれた喉元のようだ」
 男の囁きは誰にも向けられていなかった。私は自らの手元を見つめたまま、「お好みに合わなければ修正します」と呟く。
「いい。私からすれば少々地味だが」
 私からすれば充分派手な花束を前に、眉目秀麗な男は形のよい唇に弧を描いて答えた。
「美しさとは命の脈動ではなく、切り取られた瞬間の静止にこそ宿るものだ」
 想像通り、妙な美学をお持ちの方らしい。はぁ、と、そうですね、が混ざった曖昧な返答で切り抜ける。
 どれほど高価な花であろうと、永遠に変わらない「完璧」を身に纏った男の元に行こうと、三日もすれば首を垂れ、一週間もすれば腐臭を放つ。
 美しいものはいずれ枯れなければ、均衡が保たれない。

 会計を済ませる。こちらも価格について考慮しなかったために巨大な胡蝶蘭のような金額になったが、やはり男は意に介するでもなく自然に支払った。薄いケースから当然のように取り出されたのは、完全招待制のブラックカード。
 漆黒の金属製カードは通常のそれより明確に重い。受け取る際にわずかに触れた指先は、今ほどまで氷水に浸していた私の指よりさらに冷えていた。
 空調の効いた室温でこれほど体温が低いのは、死んでいるか、あるいはよほど血巡りが悪いかのどちらかだ。
 人間であれば。
「領収書はいかがいたしますか」
「書きたいのか? 領収書」
 どう見ても面倒くさそうな男が、いちいちちゃんと面倒くさいことを聞いてくるから暴れたくなる。書きたいも書きたくないもない。業務として客に求められれば書く。それだけだ。
 だがこの男は書きたいのか、とこちらに聞いた。だから答える。
「嫌だ」
「では、失礼」
 風が吹いただけで折れそうな風貌とは裏腹に、男は花束の根元を片手で掴んで歩き去った。

 自動ドアが閉まり、電子音が静寂を告げる。男が持ち込んだ肌を刺すような空気は逃げ場を失い、店内の隅に澱んでいる。私は肺の底にあるものを全て吐き出すべく息を吐いた。
 瞬間、視界に見慣れぬ影が映った気がして、レジカウンターに視線を落とす。
「……」
 どういう訳か先ほどまで男の胸元で揺れていた銀十字が、死んだ魚の鱗のような光を放って横たわっている。鎖が切れた様子もなく、そこにあるのが当然と言わんばかりの佇まいで。
「…………」 
 思い返しても男がカウンターに手を置く仕草に覚えがない。私は猛毒の這い跡を見る心持ちでそれを摘み上げた。
 冷えきっているのは金属特有の冷たさではない。熱という概念を一度も得たことのない、底なしの拒絶を示す温度。
「………………」
 自動ドアの先を見据えて追おうかとも考えた。しかしその先のどこにも、あの派手な白い花束を抱えた男は存在しないのだろう、と思う。店内を見渡してみても誰の足跡も、香水の残り香すらもない。
 あんな男は、この世のどこにもいなかったのだ。
 頷き、もう一度深く大きく息を吐いて銀十字をレジ奥の小物入れに放り込む。出所不明の貴金属を売るのも持ち帰るのも寝覚めが悪い。いつかあの男が平然と「忘れた」と再訪した時、顔面に投げつけてやる必要がある。
 もっとも私は、あの怪物が二度とこの店に現れないことを願っている。

*

「こんにちは」
 ぼんやり見たことがある。デビュー以来新進気鋭の作曲家として持て囃され、以来確かな実力と既存の概念に捉われない演出で人気を博している男だ。何度か音を聞いたが、煌びやかな音階が特徴的で覚えている。
 すらりもした体躯に一つに結んだ金の長い髪を靡かせ、踵の高い靴特有の音を鳴らしてカウンターへとやってくる。
「いい香りの花束を作ってほしいんだけど、そんなお願いでも大丈夫かな?」
 さながら花を保つために冷えた店内に流れ込む春の陽気、もしくは人々を導く星明かり。人懐こい顔立ちに柔和な笑顔、その雰囲気通りの口調。依頼の内容も面倒ではない。つまり紛うことなく普通の客だ。
「ええ」
「ありがとう。オケコン会場に届けてほしいんだ、ピアノのソリストに贈りたい」
「はい」
「私の宛名は書かなくていい」
 一度、時間をかけて瞬きをする。切り花の香りに混ざり、焼け付くような違和が立ち上る。風向きが変わった。面倒の匂いがする。
「差出人の記載がない荷物は引き渡しできかねます」
「うーん。そこはほら、この店から、としてもらえれば」
「難しいご提案です」
「厄介なことを言って申し訳ない」
 名を貸すのは簡単な選択ではなく、店が贈る理由もない。それこそ、見ず知らずの相手からの花など警戒して誰も受け取らないだろう。
 相手も一般から逸脱した提案──つまり迷惑だ──と自覚はあるようで、素直に謝罪した後で腕を組み、眉間に皺を寄せ、そこに至った経緯を言い淀んでいる。話すべきか、彼なりの熟慮があるのだろう。
「なにせ彼は私から、と知れば素直に受け取らないか──」
 相手が目を閉じ、首を傾けると結んだ髪も踊るように跳ねる。何やら確執ある相手らしい。
「……いや、それならいいんだが、最悪……」
 数秒の後、観念したように目を開ける。彼は短い溜息とともに理由の最奥に触れる選択をした。
「食べるかもしれない」
「食べる」
 瞬間、私も、目の前の男も、店で流れる音楽までもが揃って停止した。通常であれば気に留めず、次の曲への移行でしかない空白が妙に長く感じられる。
 花束を食べる。趣味なのか、芸術家特有の感性か、あるいは単純に異常なのか。ごく平凡な会社員でしかない私は素直に受け止めかねる。少なくとも、今まで言われた経験がない。
 分からない。
「君の誤解を解かせてほしい」
 次の曲が始まると同時、目の前の男は額に手を当てて目を閉じていた。言い淀むには充分な理由であったと察するに余りあり、聞かされた私も同じ気持ちで頭痛を覚えている。
「ベラをおかしい男だと思うかもしれないが」
 唐突に固有名詞が出てきたが、相手の名前なのだろう。遠くで聞いた覚えがある気がする名は、確かに作曲家とか音楽家とか、その手合いだったはずだ。目の前の男同様、何らかの話題性があったように思う。
 であれば年代が近く、技術的には素人目に遜色ない同業者で、贈り物を拒絶するか、はたまた喰うかの相手。
「普通の人なんだよ。ただちょっと私に対する感情がややこしいだけで」
「左様でございますか」
 嫌な予感がして、極力聞かないようにした。言えば言うほど異常性が際立つと理解していない無自覚さに、今まさに私は恐怖している。言い表すのが面倒な関係性を店に持ち込まないでほしい。
「頼む、分かったと言ってくれ。不安になってしまう」
「分かりました」
「ありがとう」
 そんな男に贈るなら最初から食べられるものにしろ、と言いかけて、やめた。首を突っ込めば絶対に面倒くさいと、長い社会人生活を経た私の直感が強く訴えている。
「念のため、食べても問題ないものをお入れします」
「あっ、そういうのがあるんだね」
 食用として提供していないものを勝手に喰ってどうにかなるのは本人の責任だが、私は話を聞いてしまった。可能性を示唆された。もし毒性のある花で事故が起きたら、自分と店のキャリアが終わる可能性がある。
 半面、目の前で明らかにほっとした表情で顔の下で両手を合わせた男はこちらの心情を知ってか知らずか、店内に入ったばかりの様相を取り戻していた。
 可食用途のエディブルフラワーは大体が花弁の状態で流通しているが、当店には花の状態で入手する伝手がある。流通とは別に、毒性を持たない品種を薬剤を極力使用せず、通常の草花と明確に分けて育成すれば一応、食べても問題はない。通常の生育よりはるかに手間がかかるうえ特段旨いものでもないが、食べたいなら食べればいい。
 勝手にしてほしかった。

 男はコンサートホールの住所と、件の男だろう人物が写る画像を端末で開いてこちらに指し示す。告知画像らしいそれは拡大されていて全体は見えず、顔のほとんどを覆った男以外の出演者は不明だった。
「呼ばれてはいないけど、以前、試しに関係者口に行ったら呼び止められずに入れたもので」
 なぜ呼ばれてもいない会場に行くのか、理解が及ばなかった。一般で入るつもりだったのか、とは聞かない。答えが返ってくる。
「一度入れたら面白くなってしまった。よく彼とは似てると言われるが……間違えられているのかな」
 表示された画像を見る限り、間違えるほど似てはいない。そもそも相手の目元が隠れているため判断は難しい。強いて言うなら長い尻尾のような髪型と輪郭が似ているが、その程度だ。
 だが、出演者ではない者とソリストを担当者が間違えるなど、あり得ない。
「どうだろう。似ているかな?」
 当然、そんなことは同業であるこの男も知っているはずだ。関係者口から入れる理由も、恐らく、この男も相手と同じことをしているのだろう、とも。
 似ている云々は知る由もないが、ゆえに返す言葉に詰まる。言葉は口にすれば重くなる。
「色……、形……」
 画像と目の前を一度ずつ眺めて漠然と答えるうち、目がふたつで鼻がひとつ、というレベルの話をしていると自覚する。だが、今回ばかりはそれが正解であろう。
「なるほど。つまり雰囲気が?」
「可能性としては」
 明言を避けたが、男は納得したような素振りを見せた。似ていないが正解なのか、あるいはその逆なのか、求める言葉を与えられるほど私はこの男と親しくない。
「メインにストックとビオラを使います。あとはバラとミントを」
 在庫の茎の硬さを確認し、薄い花弁を指先で弾く。果たして佳き日を寿ぐ材料となるか、あるいは狂気を飲み込む器になるのか。
 春の香りとしてはスイートピーやフリージアが鉄板だろうが、毒性を持つため適していない。食べても安全なものだけ、とすると選択肢が一気に狭まるが、依頼であれば対応するほかない。
 なぜ人から貰った花を喰おうとするのか、そう渇望した経験のない私には不明のままだ。単なる趣味なら断ずるだろうが、そうでない理由を考えると解は衝動が近く、どうあっても異常性が際立つ。
 入ればより香り立つ花は軒並み使えないが、個別に包み、目印を付ければ分かる相手だろうか。
「これは絶対に食べるな、とカードに書き添えることは可能ですか」
 花屋ではあまり聞かない問いかけに、男は人好きする笑顔のまま、長い金髪を流星のように揺らして答える。
「彼は目が見えない」
 冗談ではないのだろう眼前の言葉が意味するのは、差し向けた質問の回答だけではない。
 似ていると言われて、なぜ髪型を変えないのか。
 鏡を見ることができない者が、どう似せるのか。
 では、似ているのは──と言いかけて、やめた。
 認識を改める。普通の客ではない。やはりこの手合いに首を突っ込むといい事がない。

 会場に送る花は今作るわけではない。ゆえに今はイメージを共有して代金を支払ってもらい、当日代わりに配達する。期日が近いが、問題にならないだろう。
「差し出がましいようですが、やはりお名前はご記載ください」
 金額を提示した伝票を作成した段で告げると、やはり相手は困ったように笑んでみせた。
「神秘を暴くのは無粋だよ」
「必要なのは神秘ではない」
 ややこしいと言っていながら、名を隠してまで花を贈ろうとするのはどういう了見なのか。まだ若いゆえ自覚がないのかもしれない。
 そんなことはどうでもいい。勝手に悩んだり苦しんだりすればいい。私は花屋の店員として、この男に名前を書かせなければならない。
 受取人が拒否、ないしは被害を被った場合の責任はすべて差出人に帰属する。それはお前である。
「贈ると決めた責任から、目を背けるべきではない」
 私は頭が固く、神経質で、完璧主義で、社内の全員から嫌われている。今更、説教をして若者ひとりに嫌われたとて傷つく繊細さは持ち合わせていない。
 カウンターを挟んだ先、穏やかさを纏い続けた皮膚は剥がれ落ちるように消えた。緑色の瞳孔が妙に生々しく開く。
「喜ばせたいなら喜ばせろ」
 私は目の前の男の名前だけが空欄の伝票を差し出し、ペンを横に置いた。

*

 不可抗力、というものは確かに存在するらしい。
 条件反射の呪文も出ず、手から何かが滑り落ちた。角から床に接触した発注用のタブレット端末が鈍い断末魔を上げる。
 死んだのだ。
 来店早々に金属質な悲鳴を聞かされた丸い黒眼鏡の老紳士は、豊かな体躯を揺らして驚いた。
「なんと、君、大丈夫かね」
「指揮者ハマノフ」
「やや。よもやご存知ですかな」
 ご存知どころではない。指揮者ハマノフ。彼が指揮するオーケストラは何度か見に行った。
 同じ曲だとしても演奏や指揮の如何により何度も楽しむことができるクラシックの寛容さと、宝物のような大曲を真正面から聴く経験は他に代えがたい幸福を与えてくれる。
 楽譜の表面をなぞるに留まらず、歴史まで遡って読み込み、理解と解釈を深めることで圧倒的な表現を叶える世界的な第一人者。こんな一介の花屋を訪れるような人物ではないことは確かだ。
「なぜ」
 突然の出来事に思考はオーバーフローを起こし、愚かにも疑問符を出力することしかできなかった。
「先のコンサートでこちらで誂えたという花束を頂いての。気に入ったのでひとつ孫にも見せてやろうかと」
「左様でしたか」
「とびきり綺麗で目立つ男が来なかったかね? かなり有名なはずだが」
 世俗に疎い私には有名かどうかは知り得ないが、曰くとびきり綺麗で目立つ男に該当する人物には確かに覚えがある。
 真正面に立った時に流れてきた濡れた土の匂いは、確かに温度のない血を感じさせた。
「怪物のような男が一人」
「怪物!」
 浮足立った脳はいまだ静止弁が機能せず、思考そのままの言葉が口を突いて出た。
 対した相手はほほーう、と鳥の鳴き声のような笑い声を響かせ、「その通り」と続く声は穏やかだった。
「失礼しました」
「いやいや、正しかろうて。なにせあれで儂と同世代だからのう」
 耳から入った言葉の意味を咀嚼し、目を閉じる。思い出す。目を開く。
 長い瞬きになった。
 そんなことはありえない。
 何度記憶の引き出しを開けても、あの男は私と同程度の外見年齢だった。どう見ても。身なりに気を遣っている分、年下に見えたとしても何らおかしいところはない。
 いかに正体不明の怪物であろうと、あれがハマノフ翁と同世代というのは──初対面の相手の心を解す、老紳士の心ばかりのユーモアだろう。
「ご冗談もお見事です」
「ほっほっほ」
 私の回答を聞いた老紳士はなんとも愉快そうに、朗々とした笑い声だけを響かせていた。
「聞くところによると食べても旨いとか」
 思いのほか激しく振り返った首が傷む。反面ハマノフ翁は特に疑問も持たない様子で、ただ耳にしたことを口にしただけ、の体だ。
「話の出所をお伺いしても?」
「なに、共演したピアノのソリストが」
「ありがとうございます。充分です」
 点と点が繋がって星座を作った。予想が的中すると大概具合が悪くなる。あの盲目、全部喰ったんじゃないだろうな、と会ったこともない男に舌打ちしたい心情を抑え、私は頭を下げる仕草で床を見て平生を保った。異常な奴がちゃんと異常だと頭にくる。
「孫が持てる大きさでは小さなものになってしまうが、よろしいかな」
「ええ」
 金額とか利益とかどうでもよかった。今この瞬間だけは、花屋でよかったとさえ思う。
「ところで君、それは本当に大丈夫なのかね」
 死後数分、床に伏せたままの金属板を示したハマノフ翁が控えめに尋ねる。
「形あるものは、いずれこうなる運命ですので」
「ほーう……」
 気にしてもらうことではない、と言いたかっただけなのだが、妙に壮大な話になった。己を恥じる。
「ご令孫はどういったものがお好みですか」
「ふーむ。まだ花などよく分からんだろうし、可愛らしいものがいいと思うのだが」
「差し上げたい花はございますか」
「いや、お任せしよう」
「かしこまりました」
 今までこんなにも花束が作りたかったことはない。いや、本当は作りたくないのかもしれない。
 可愛らしい、子ども向けの花束。一番苦手だ。子ども向けと勝手に思い込んで自分で選択肢を狭めているのが原因なのだと思う。
 主役の色は明るいものがいいだろう。顔が大きくて分かりやすく目を引くガーベラに、小さめの向日葵をそれぞれ数本。色彩のトーンは黄色を中心に暖色を揃える。
 横にジニアとマリーゴールド、それから淡い色のスプレーバラを少々。隙間にはカスミソウを差し、外側にアイビー。
 セロファンと明るい包装紙に包んでグログランリボンでまとめる──今日の私は機嫌がいいのでシールも貼った──と、妙に元気のいい花束が目の前に現れて若干たじろぐ。世話をする私に元気がなくとも、適切にやっていれば花は勝手に元気になる。
 ありがたいことだ。
「いかがでしょうか」
 完成品を示す際に、薄っすらとした不安を拭い去ることは出来なかった。己の浅い「可愛らしい」の理解と経験値では、果たしてこれが適当であるかは甚だ不明なのだ。
 こういった時に後悔を残さないよう、日々を過ごさなければならないのではなかったのか。
「随分立派だ! 明るくて、うむ、可愛らしいのう」
 正解を提出し、喜ばれたことに深く息を吐くことで、自分が緊張していたことをようやく自覚する。ハマノフ翁はうむうむと頷き、愛しい孫を想う好々爺の顔をした。
「ままごとに使わせるには勿体ない。花がよいのだろうなぁ」
「恐縮です」
 使った花とラッピング用品を計算し、滞りなく会計を終える。きわめて一般的な範囲に収まったことに安堵した。豪華で派手にするのは簡単だが、少ない本数でそうと思わせずまとめるのは存外手間がかかる。
「よい記念になった、儂を知っていてくれるのなら尚のことだ。記念にサインでもさせてもらえんかね」
 帰り際、思っても見ない提案がなされた。ハマノフ翁は類い稀なる善の心をお持ちなのだろう。昨日までの私は、今日この日のために生きていたのかもしれない。
「光栄です」
 口にした後に気が付いた。何にだ。
 脳の機能を一気に活発化させる。色紙などはない。書けそうな私物も。店の壁にでも書いてもらうか。それを剥がして持って帰る。
 ふと視線を落とした先に、死後数十分が経過した哀れな金属の死体が見えた。
 
 配達から戻った部下が、小さなイーゼルに立てられた板を見て物珍しそうに言う。
「タブレットの死体を晒し首にでもしてんのか?」
 物言わぬ黒い画面には、雷が落ちたようなヒビが天井の照明を反射して光っていた。
「それは責務を全うした」
「落としただろ。どう見ても」
 他責思考だな、と呟いた部下はタブレット端末を片手で持ち上げると、ほとんど無意識のうちに裏返して更に怪訝な顔をする。
「なんだこのサイン。あんたのか?」
 私は衝動的に暴力を振るいたい気持ちになったが、賞賛されるべき理性で浅はかな加害性を収めることに成功した。

作成日 2025/8/10(Sun)
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