君は無慈悲なうちの女王
我々の脳は自らをも騙してしまう。 過去や思い出を「よりよい」ものと思い込み、今よりも──その当時そのものよりも穏やかで優しく、優れたものと誤認する。
記憶はもうあてにならない。 ゆえに記録が必要だ。 感情、思想、希望、絶望……それらは一瞬のうちに過去となり、二度とこの手の上に戻ることはないのだから。
我々は物事を消費しすぎた。 数少ないうちは大切にしていたものも、与えられるものが増えるにつれ消費速度は加速度的に上昇し続け、飲み込み、咀嚼し、消化にかかる時間があまりにも早くなりすぎた。 その味を思い返す暇もなく、次の獲物を探している。
口を開けたまま水面で餌をねだる魚のように飢えながら、永くを生き、全てを既知とする巨獣のように飽いている。
風が吹き、雨が降ることに理由を見出すべきではない。
それはこの大地のあるがままであり、人のために行われるものは何一つ存在しない。
山に降り積もる雪に潰されようと、闇よりも深い海に呑まれようと、その結果に大いなる意思などありはしないのだ。
近頃、凶兆の呼び声と噂されていると聞いた。 その姿を見た者には近いうち災いが降りかかるのだと。
私は執務室の扉を開ければそこに存在しているが、果たしてこの顔を見た者は次の戦地で確かな死を思い、その運命に涙するのだろうか?
花の茎を切る。 小さな蕾はその小ささゆえ他の蕾のために捨てられ、終ぞ自らの色を知ることはない。
切断面から染み出す液体が鋏の刃を濡らし、薄く鋭い鈍色を滲ませる。
大層な趣味だ。 嫌気が差す。
趣味。
趣味というものはこのような雑念の中で消費していいのだろうか?
私たちはそもそも、何かを考えていなくてはいけないのだろうか?
日に当たり、焼けた葉を落としていく。
「面倒くさい」
趣味も、仕事も、生きることのなにもかもが。
「ご機嫌よう。 いいお日和ね」
隣で、裾のすり切れた赤いドレスを着た人形が言った。 傾げるように首が動き、肩や腕に内蔵された関節のひとつひとつが音も立てずに稼働する。 両耳を隠わすようにくるりと巻かれた髪から流れた長い毛先はさらりと肩からすべり落ち、ふたつの足で自立するための重心感覚も寸分狂わず、長い睫毛に覆われたひときわ目を惹く青い硝子の瞳には一片の曇りもない。
人形の調整は完璧だった。 唯一そのドレスを除いては。
「……」
ヴィルヘルムは顔を上げず、答えることもなかった。
人形がここで動いている意味が分からなかったからだ。
庭先で長靴を履き分厚い軍手をはめ、重苦しいジャケットを脱ぎ捨て、背中を丸めて土を掘り返し、植えた植物の剪定をしている男が目下「魔界の凶兆」などと嘯かれている傑物とは誰も信じないだろう。
土の上に影を落としながら、ヴィルヘルムは部下に「あんた家あるんだ」と疑問されたことを思い出していた。 この部下は脳と口が直結しているきらいがあり、なまじ胆力があるためか思ったことをそのまま出力する。 己が業務以外の会話を意識的に避けていることは事実だが、住む家すらないと思われていたという現実を目の当たりにして職場でのコミュニケーション不足を強く実感した。 したからといって翌日から気分を変えて明るく挨拶を交わし朗々とふれあう──はずもなく、いつも通り無表情で、何も話さず淡々と仕事をするだけだった。
人は何かを思ったとしても、そう簡単には変わるものではない。
土や草花と触れ合うことはストレスを緩和し、精神の平穏をもたらすという。 ヴィルヘルムはそれを額面通り真に受けたわけではなかったが、元来自然や草花は気に入っていたし、他者と明るく会話するよりは実行が容易で、手がけた分だけ目に見えて成果が出るなら悪いことはないように感じた。
試しに始めた最初の年は散々で、巻いた種、植えた苗のほとんどがうまく生育しなかった。 ヴィルヘルムは閑散とした庭でそのようになった理由を考え、原因を探り、知識を得て対策を重ね、そうして幾度かの季節が巡りこの庭が満開の花と木で埋め尽くされたときも、やはり何の感慨も湧かなかった。
ただ、そうなるようにした。
草花の育成に必要かつ土に不足している要素の調査と特定、病害虫による被害や耐病性の確認と効果のある薬剤の散布方法、発芽率と開花率、種別成長度合の計測と肥料濃度など、改善すべきところを一つずつ観察し、記録し、学び、対策を講じた。 その結果、狙い通りに実った成果が目の前にある。 それだけだった。
土とふれあい、花が満開になっても心は平穏にならないどころか、余計におかしなことが起こりすぎている。
一般的に人形は話さず、動かず、意志のない無機物である。 ヴィルヘルムはごく平均的な一般会社員を自負しており、抱いた感想は世間から強く乖離したものではない。
だが、今まさに隣で話しているのも紛れもなく人形だ。 大きさは違うが、ヴィルヘルムがこの家を買ったとき、リビングの隅に置き去りになっていた埃まみれのキャビネットの上、かつてオルゴールのおもちゃ箱と共に飾られていたであろう人形。 髪は乱れて千切れ、支えを失った関節は体から外れ、片方の瞳が外れかけ、ばらばらの四肢を破れかけの赤いドレスに埋めた人形。
死んでいる。
無機物である人形に対しそう思ったのは、「生きていた」姿を想像できるほど、朽ちたその姿さえ完成された人形だったから、かもしれない。
この人形はがらくたのおもちゃ箱を墓地に、永遠の眠りについたのだろう。 死は静かで、救いで、美しい。 何によってもたらされたかに依らず、艱難辛苦の現世という檻から逃れる鍵が死の形をしているだけなのだから。
その見事な死に免じ、ヴィルヘルムは人形を処分しなかった。 埃を払い、関節のゴム紐を引き直し、髪を整えて二本の足で立てるよう重心を揃えた。 傷んだ髪と睫毛を付け直し、丁寧に磨き直した青い硝子の目を元の場所へ戻したとき、それこそがこの人形の死の瞬間──ほんの一秒前まで「生きていた」姿そのものだと、一切の疑念なく腹に落ちた。
だから、ドレスを直す必要はなかった。
この大地には真も偽もなく、飽和し脚色された情報よりもなによりも、ただ己の目の前で起こっていることだけが唯一の正確だ。 キャビネットの上に置いたはずの人形に隣から話しかけられている。 今はそれだけが現実で、真実だった。
「私はおかしくなったらしい」
ヴィルヘルムは畝をぼんやりと眺めたまま、誰に言うでもなく声を零した。
「まあ」
隣でそれを聞いた人形は、桜色の爪が輝く指先で薄紅色の唇を抑え、まるで驚いたように動作する。
「おかしくなってしまったのね」
震えないはずの喉を鳴らし、少女と淑女の間の声でそう言った。
人形はドレスの裾が地に落ちることを厭わずしゃがむと、まるで庭石のように動かないヴィルヘルムの顔を覗き込む。
「あなた、どうしてここにいるの? 何をしているの? お名前は?」
まるで幼い迷子であるかのように問う人形の言葉に、瞬間ヴィルヘルムは己の感情が喜怒哀楽の何かしらに振りきれる感覚を抱いた。 それこそ本当の迷子のように、涙を流し大声で叫び、いっそこの場で暴れたらどうかと、そんなことが脳裏に浮かんでは消えていく。
眠っている人間と会話をしてはならないというが、幻聴を伴う幻覚とはどう接するべきなのか。
わからない。
面倒くさい。
捨鉢になり、ヴィルヘルムは俯いたまま人形の疑問に回答することにした。
「ここは私が買った家の庭で、私は草花を育てていて、私の名前はヴィルヘルムという」
「そうなのね」
教えてくれてありがとう、と人形は応える。
「あなたがお手入れをしているから、お庭が綺麗になったのですね。 ご主人さまとおばさまもお庭は大切にしていたけれど、こんなに遠くまで綺麗なのは見たことがないわ」
素敵ね、と人形は喜びを隠さず、やはり完璧なシンメトリのアルカイックスマイルを見せた。
ヴィルヘルムは暗澹たる心持ちで人形の声を聞いていた。
そして堰を切ったように次のような事を滔々と述べた。
自分には物事を最良の形として仕上げるようとする完璧主義めいたところがあるようだが、それは成果が結果として完璧であってほしいだけで、自分が一からそれを完璧に作り上げたいというわけでは決してない。
かつて同僚に「君と同じように仕事はできない。 我々がそうあるには、君よりも多くの時間が必要である」と告げられた瞬間、雷に打たれたように頭の中にあったすべての思考は停止し、体の自由が利かなくなったことを覚えている。 過度のストレスを受けた時の反射反応だ。
自分が優秀だと思ったことなどない、それどころか、自分が一番冴えず愚鈍で、ゆえに最良を目指し研鑽しなければならないと信じて疑わなかった。
自分以上に仕事ができない人間がいるなどとは、考えたこともなかったのだ。
仕事も他人が完璧にやり遂げてくれればそれでいいし、この草花も埋めただけで理想通りに育つならそれが一番いい。 だが現実はそうではなく、戦地へ行けば指揮系統はめちゃくちゃで人も施設も損害が多く、古いまま放置された書類の形式は煩雑で分かりにくく、上層部は答えの出ない会議で無為に暇を弄んでいる。
もっとうまくできないのか、やらないのか、そのようなことの繰り返しに、はっきり言ってうんざりしていた。
ヴィルヘルムは職場の人間関係なんてどうでもよかった。
だから制圧した。
誰よりも多く敵拠点を破壊し、誰もが無視できない成果を上げ、無駄な戦闘を減らして金も被害も抑え、そうして上の席から自分よりも頭が悪く働かない奴らをすべて引きずり下ろし、空けた席すべてに自分が座った。
ただ土の上に撒いただけの種は発芽すらしない。 自分の求める理想になるために、仕方なくあれそれと動きまわって努めているだけだ。
面倒くさい。
ヴィルヘルムは決して好きでやっているわけではない。
面倒が嫌いだった。 趣味も、仕事も、生きることも。
「あなたが何を言っているのか、全然わからないわ」
おとなしくヴィルヘルムの話を聞いていた人形は頑是ない顔で言い放つ。 その作り物の相貌からは、理解しているのかいないのかの判断はできなかった。
「私はきちんとしていたいだけだ」
手に持った鋏を意味なく開閉し、続ける。
「この庭の草花も、ただ開けばよいなら苦労はない。 だが不足や欠点をなくすには、まだ時間がかかる」
「あら。 ここが今から一番近い満開のころは、私が見た中で一番きれいだったわ」
人形は思い出していた。 今から一番近い満開の日、生い茂る緑の葉がそよそよと風に揺れ、垣根は乱れという文字を知らないとでも言うようにぴったりと整えられて、土を隠すように白や黄色の小さな花が大地を覆い、そこかしこで巻きの強い豪奢な花弁や大振りの花弁が悠然と咲き誇った日。
人形は窓からその光景を見ていた。 鳴らないオルゴールを背に、立ち上がれるようになった二本の足で己の体を支え、曇りなく透き通るその青い瞳に写した。
あの頃もこの庭が草花で覆われると、ご主人さまとおばさまはよくお庭を眺めてお話していた。 大切にされていた頃の穏やかで優しい思い出はオルゴールの音色を聴けばもっと湧き出てくるのに、今は断片でしかない最愛の過去を想い返す。
──今年の薔薇もとても綺麗だ。 病気に負けず、よく咲いた。
──芝は青く、花は美しく香り、鳥たちも喜んでいますわ。 きっとこういう場所を──
「こういう場所を天国というの。 本当に、とてもきれいだったのよ」
想像したこともない言葉が耳を通り抜け、ヴィルヘルムは顔を上げた。 疲れきって痩せた白い顔はこの日初めて──生まれて初めて、人形と視線が合う。
「あれでいいのか」
「あれがいいのよ」
人形は笑っていた。 それは優れた人形が生まれ持つ造形美そのものであり、温度を持つ感情の振れ幅でもあった。
そうして球体関節を感じさせない動きで立ち上がり、まだ色が残る庭を抱くように大きく二つの腕を広げる。
「ここで踊れたらとても素敵。 オルゴールが鳴ればいいのに、あれがないと踊れないの」
「踊れるのか」
「私はそのためにいるのよ」
言い、その場でくるりとゆっくり回って見せる。 足を覆い隠すほど長く重い全円のスカートが軽やかに翻り、軸となる場所は変わらず、土埃ひとつ立てずに一周した。
そのための人形、と自負するに相応しい優美な動きを眺め、しかしヴィルヘルムは疑問する。
この人形の言う踊りとは通常、
「一人で踊るものではないだろう」
「私が知っているのはあの曲だけで、ひとりでしか踊ったことはないわ」
私は人形だもの、と抑揚なく続ける人形をあらためて見やり、ヴィルヘルムはその刹那のひとときだけ逡巡したが、土にまみれた軍手を外す。 軍手の白よりなお白い皮膚が露出し、長く骨ばった指がぎこちなく動く。
そして倒れていた死体が起き上がるように、緩慢な動きで時間をかけて立ち上がった。
こんなによくわからない日には踊ってみるのもいいと、そう思った。
「ステップの名も順序も知らなくても、好きに踊ればいい。 私が合わせる」
それは「一曲いかがですか」に比べれば稚拙で奇妙な誘いだったが、その巧拙を考慮せずヴィルヘルムは相手へと手を伸ばす。 踊りの誘いもリードも往々にして男性の担当、という慣例に沿った行動を取ったに過ぎない。 不足があれば回数を重ねるにつれ改善していけばそれでいい。
作法を知ってか知らずか、人形は疑念を抱く様子もなく素直に眼前に差し出された手を取った。 温度も硬さもまぎれもなく無機質な人形のそれは、いっそ人間のものより快い。
「あなたも踊りがお好きなの?」
「ああ」
舞踏は音楽、装い、所作、そのすべてが過去から今にいたるまで連綿と受け継がれている文化で、原始的な喜びの発露で、敬意を払うべき芸術だ。 そういったものに触れ、守り、継承することが意志ある生命が存続している理由の本質であると、ヴィルヘルムは信じている。
習得したステップや回転が戦地での動きに大いに寄与してしまったことが芸術の冒涜のように感じたこともあるが、その逆も然り、結局それが己でしかないのだと、雑念を無理やり飲み込んだ。
家に戻って靴を履き替え、おもちゃ箱のオルゴールを鳴らす、と考えたところでヴィルヘルムは己に致命的な認識が欠けていることに気が付く。 やおら人形に向き直り、今更の質問をした。
「名はあるのか」
「私の名前はシャルロットよ」
そうか、とその名を呼ぶことはせず、代わりに手近の大輪の花を切る。稚拙な誘いの詫びにでもなればいい、と選択したのは赤いドレスに揃いの赤だ。
言葉なくまだ瑞瑞しいそれを人形の青い髪と白のベールの境界に差し込むと、シャルロットは頭部に追加されたパーツを不思議そうに確認する。
そして、
「私は花瓶ではないわ」
「──は」
ヴィルヘルムは自分の喉からただ一言溢れた声を聞いて目を見張る。
笑ったのか、私は。
最後に自分の笑い声を聞いたのがいつだったか、もう思い出せないほど昔の記憶にしか存在せず、これが本当に笑い声なのかすら判然としない。
庭の中に風が吹き、枝葉は音を立てて揺れ、落ちた花弁は空へと舞い上がる。
この世は苦難に満ち、意識しても行動は変えられず、起こる自然現象に大いなる意志など存在しない。
永劫満たされることのない人生に飽きて、飢えていて、それでいい。
その時初めてこの庭にある色彩、その数の多さを認識した。