滄溟波濤の願

紙束を手に、白い影は音もなく扉を開く。
静かな部屋だ。 磨かれた机の上、瑞瑞しい花が活けられた花瓶の縁、壁に掛かった額縁の上にまで埃一つ見当たらない。
白眉の相貌、そこに貼りついた無表情を崩すことなく部屋の主は座していた。
外見、言動、実力の全てにおいておおよそ何者からも恐れられている部屋の主の部下は、しかし無遠慮に毛並みの揃った絨毯に足形を付ける。

「言ってた資料ってこれか? こんな時代に逆行した……紙束の……中見れねぇんですけど」
言い、室内には不釣り合いな顔を覆うガスマスクを外してジャックは手にした紙束をばさりと振った。 そうしたところで紙は一枚もめくれる様子はなく、ただ手首のスナップに合わせて揺れてみせるだけだ。
部屋の主は声に合わせて部下へと顔を向けた。 青を融かしたような赤い髪が揺れる。
「魔術文字は閲覧者の限定や後の改変破損を防ぐが、費用と手間の問題で量産に向かず現代では好まれない。 お前が見たことがないのも道理だろう」
神経質そうな声、と形容される声は常に感情の抑揚がない。 熱さも冷たさも内包しないそれは、近づきも遠ざかりもせず、ただその場に響く。

「時にジャック、書類が未提出だと私の元に報告があったのだが」
「あ? この前の報告書なら出しただろ」
ここ最近、業務報告書の提出期日を破っていないジャックは反論した。 業務改善の一環で書類自体の定型や提出方法が緩和され、それにかかる労力はかなり減ったからだ。 改善の発案は他ならぬ目の前のこの男であり、全体の提出率が飛躍的に改善したことは正しく認識しているだろう。
しかしヴィルヘルムは手元のメモを一瞥し、記憶と相違ないことを確認して告げた。

「『波動関数と次元振動論』、『量子エネルギー多次元論』、『並行宇宙移動時の時空間圧縮の際に発生する流体の歪みについて』」
瞬間、この部屋は時計の針すら止まったかのようだった。
「は?」

淀みなく述べられたそれらを、まるで聞いたことがなければ焦りもなく平然としていられただろう。
ジャックの不運は、耳にしたその名称に確かに聞き覚えがあることだった。
知っている──聞いたことがある。 先日技術部に利用申請を出した装備の使用許可が下りる条件、理解度を測る項目で確かに「指定論文内の具体的な事例を元に内容をまとめて私見を述べる」レポート提出要求があった。 書類提出よりも実地テストで既定点以上を出せば問題ないだろうと読み流したが、どうやらどこかでこの上司の耳に入ったらしい。

「……それってマジで書くやつですかね」
己の問いに対し、目の前の男から得られる答えは聞かなくても分かる。 それでも念のため、確認を取るように聞いた。
「お前が感覚で使っている技術の理論を知識として持つことは重要と考える」
ジャックは無意識のうちに息を呑んだ。 血管に血が流れる音を知覚し、だんだんと大きくなるそれを聞くうち、自分の心臓の形が明確にわかるような錯覚さえ覚える。
「……どの程度」
「S感情波とD精神波の共鳴作用は一般にTxウェーブコンパイラを用い各層へエンタングルRNAを介して相互コヒーレント状態で形成波動として外界出力するがその不可逆過程で発生する熱量Q」
「ちょっと待て!」
ジャックは絶叫した。
頭の上で知らない言語が手を取り合って踊っている。
「何の話をしてんだ」
「反粒子バーストの発生及び停止条件を正しく述べれば免除とする話だ。 随分楽になったはずだが」
何がどうなって楽になる話なのかはまったく分からない。 分からないが、この上司が「せよ」と言えばやるほかないということをジャックは骨身に染みてよく知っていた。 今この瞬間に息が止まれば、そのほうが楽だと確信するくらいには。

「呆けていないで資料を渡してもらえるだろうか。 表紙には何と?」
その声に、硬直した体と思考を現実に戻したジャックは己が持つ紙束の表紙を見た。 手本のような筆跡で綴られた文字は "Aufzeichnung von Monstern" とあり、
「あー……、”化物の記録”?」
得た答えに、しかし感慨なくHerrlich.と教科書通りの発音で返しヴィルヘルムは続ける。
「ウェンディゴ、ティフォン、ナハツェーラー、レヴァナント、バンシー……今も残る伝承となったものの祖。 しかし暴力に溺れ理性を持たぬ凶獣ではなく、ただその力が強大すぎたもの、理を超え、境界に触れるもの。 当代の思想の先にあり、及ばぬ現世から化物とされたもの」
「もっとメジャーなのいるだろ」
聞きなじみのないものたちの名称──後半は意味が分からなかったので無視した──に違和感を抱いたジャックは口を挟むが、特定の人物を想起させる表現は推奨されない、と簡潔明快な答えを得ると面倒、と露骨に嫌な顔で吐き捨てた。

「色んなのがいるのは一々驚かねぇけど、どいつもこいつも馴染みすぎだ。 危なげないっつーか、都合が良すぎ、つーのか」
所属も種族も国家も違う存在が文字通り星の数ほど存在しながら、致命的な不和がない。 大なり小なり問題は起こりはするが、いずれも大事には至らず穏やかに解消される。
いかにも安易で安っぽいが、その観点からのみであれば「理想の世界」と表現するには充分だろう。
「悪い視点ではない。 我々の職務はそういった者たちをこの世界に「合わせる」ことで、おおむね交渉で解決した。 過ぎた力は持つ者にも相応の苦難を伴う。 放棄、手放すことを求めたものも少なくない」
その言葉に胡乱げな視線を向け、ジャックは紙束を上司の机に投げ渡すと応接用のテーブルへ無遠慮に腰掛けた。 そのまま卓上の派手な包装紙で包まれた菓子を手に取り、その装飾に関心は示さず封を切る。
ヴィルヘルムは部下の一連の粗野を視界に入れたが、何らかの意思を示す行動はしなかった。

「敵見必殺・速戦即決みたいな話聞いたけど」
「血に酔い、狂気の海に沈んだ者にはその向きがあるようだ」
「あんたの話だ」
ジャックの言葉にヴィルヘルムはほんの少しだけ顔の角度を変える。 その動きも馴染みがなければ見逃す程度のものだが、視認したとして、果たして快不快のどちらを表しているのかを把握できるものはこの部屋に存在しなかった。
「事実と異なる。 当時は魔界の猟犬だの慈悲なき狩人だの愉快な二つ名が山ほど付いたが、最後はみな交渉のテーブルで円満に解決した。 ここにもそのように記載がある」
「それ書いたのもあんたならプロパガンダだろ」
粉をまぶした雪玉のような焼き菓子を口に入れ、部下は当然の疑問を呈した。
口腔にバターの香りが広がる。 さくりとした歯応えに、しかしすぐに固形を失って解けていく様まで正しく雪のようなそれに素直に感心する。 凝った菓子だ、と。
「ゆえに、事実と異なる。 私は生来嘘を恥じる性分だ。 他者と私の目は異なるゆえ認識の差異は許容するが、事実は己が持つその一つがあればよい」

二三、軽やかな触感を口に放りながらジャックは思案する。
この男が恐れられている理由の根幹は、異常なのに異常ではないからだ。
会話による意思疎通が可能で、一般常識を重んじ、至って真面目に社会生活を送っている。
そのうえで殲滅戦から攻城戦、諜報戦まで要求以上に遂行し、いずれの統馭と大型目標の攻略、破壊まで一人で担当せしめる規格外の存在は、これまで多くの状況解決に大きく寄与する戦果を挙げてきた。
こういう手合いは多少狂っていたほうが"分かりやすい"のだが、ヴィルヘルムはどう見ても"まとも"だった。
だから恐ろしい。
「化け物」が己と同じ「生き物」のような格好をして同じ土の上に立っていることが、一般には恐怖そのものなのだ。

「その化物とやりあって晴れてこの世は平和になりました、ってのはこっちの負担デカすぎなんじゃねーですか」
「そう単純な話ではなく、当然、私個人の戦果でもない。 我々は目的のために単独を選ばず編成を組む。 怯懦を却け、僚友を欠かず、責務を全うするために」
意図して喉で空気を飲み、言葉を続ける。
「化物になるのは簡単だ、ジャック。 それはお前も知るところだろう。 ゆえに我々は孤独を恐れ、意志なき武器とならず、己の魂を保つ必要がある」
背後、窓から差す光はヴィルヘルムの顔に影を落とし、真正面を見るその瞳と視線が合うことはない。
遠く外で鳴る風の音は、波の音に似ていた。
「歌や踊り、絵画や詩、花や空や音を美しいと思うこと。 我々のようなものは文化や芸術を愛し、尊重しなくなった時が終わりなのだから」

それが空気だからだ。
埃一つない部屋も、壁に掛けた絵も、凝った装丁の本も、卓上に飾った生花も、豪奢な包み紙の焼き菓子も、そのすべてが溺れないための、息を継ぐための、生きるための空気。
狂気の海はだんだんと沈むものではない。
ある日、目の前が海になるのだ。
石灰質の砂の上で眠る僚友は生臭く、水を孕んで肥大している。
「私」は海の呼吸に適応できず、まだ地上の空気を求めている。

ジャックは訳が分からなかったので黙っていた。
ジャックは部下だ。 部下は難しいことを考えない。 考えるのは上司の役割だ。
上司が頭で、部下が手足。 手足は軽くて替えが沢山あったほうがいい。 傷んだらすぐ捨てられるように。
上司の意向は所属の意志だから、その通りにしていれば意思のない武器ではない。
これは組織に所属する者としての役割の話だ。 だから問題ないのだが、この上司の脳の処理速度は常人をはるかに超えており、だいたいお前ももっとちゃんとしろみたいなことを言っている。
多分。
マジでいつも何言ってるか全然分かんねーけど、多少話を聞いている様子を見せたほうがいいだろう、とジャックは結論した。

「はぁ。 詩の一編でも諳んじれるようになれって? "この門をくぐる者は──」
「ジャック」
ヴィルヘルムはその名を明確に静止の意図で呼んだ。 浮かぶ表情はジャックが部屋の扉を開けた時から一度も変わっていない。 瞬きの一度もしていない、と言われても真に受けてしまいそうなほど、その顔から感情というものを推し量ることはできなかった。
距離も温度も常に変わらず、その声は呆れるでも蔑むでもない。
「お前の頭が悪いうちは、私はそのような心配をする必要もないのだろう」
ただ、純然たる感想を述べただけだった。

「あんたと話してると頭悪いのかもなって実感するわ。 もう腹も立たねぇし」
深く重く溜息を付き、ジャックもまた己の率直な感想を吐いた。 目の前の男に言わせればそうだと認めるほかない。 魔術理論も業務改善も陣頭指揮も同様の采配ができると勘違いするほど驕ってはいなかったし、この上司を侮ってもいないのだ。

そうして認めたところでまた、上司の部下に対する言動が変わることもない。
「己の立ち位置を正しく認識することは重要だが、目下対応を求められている事項に取り組むべきだろう」
「……対応期限は?」
頭の隅に追いやっていた件をこの上司が忘れるはずもない。 いよいよ覚悟を決めて問う部下に、上司は睫毛を伏せて左手の腕時計に視線を移して返す。
「残り十三時間。 これには私の情状酌量が含まれている」
「"閣下のご厚情に拝謝申し上げます"、って言うべきか?」
「慣れない言葉を使うな、面白いぞ」
「全然面白くなさそうに言うな。 つーかその前に発動環境の前提条件設定しろ、答えようがねぇ」
「いいだろう。 では十五分後に来るように」

言葉が終わると同時、部下は何の前触れもなく姿を消した。 その影があった場所を無感動に見やり、ヴィルヘルムは机に投げられたままの紙束の表紙を手袋越しになぞる。
魔術保護で守られたそれは経年による傷みもなく、書かれた当時、過去のまま存在し続けていた。 真白い手袋に皺を作り、己でさえ書き換えられない過去の文字を眺める。
化物の記録。
歩みを止め、過去となったものを忘れることは許されない。 我々は己の責務を全うしなくてはならない。
そのために知識を得、技術を用い、進化し続ける。 やがて行き着く先の果てがどこか知らないまま、中身は変異し続ける。

そうしてこの視界に映るすべてが海になった時、ようやく野蛮な呼吸から解放され、地上での飢えと渇きが満たされるのだ。
ゆえに我々は、歩き続け──次の進化を待つだけでいい。

白い紙が踊る。 記された文字、活字のように並ぶ濃紺のインクは頁が進むにつれ徐々に滲み、かすれ、震え、歪んみ、視認性が悪くなっていく。
その最後の一枚には、ただ一文だけが姿を変えずに眠っていた。

"魂は腐り落ちた"

これを書いた「私」はまだ、土の上にいたのだろうか。
ここに記された化物は、一体誰のことだったのだろうか?

ヴィルヘルムは赤い瞳に映る炎を見た。
かき集めた空気と結びつき、水の中で燃えている。
それはは墜ちた空を抱く海の色だった。

「御身の信に値しない私の居場所、海の底には悪夢さえ届かないのです」
青い炎は灰を産み、やがて音もなく消えた。

作成日 2024/3/2(Sut)
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