unchain me more, darlin'

駅からほど近いコーヒーショップの中、カウンターから離れ、薄暗く照らされた席がある。
対面で座る影は二つ。 狼男と少女だ。
少女は暗い色の髪を揺らし、向こう側、視界の中央に赤を見る。
目の前、対面に座る相手の色素の濃い肌色、その指先を飾るのは鮮烈な赤で彩られた爪だった。

「アッシュくんは爪、いつも綺麗にしてるよね。 長いけど形整えてるし、剥がれたりしてないし」
携帯端末で料理工程を確認していたアッシュは言われ、ああ、と己の指先を見、端末から視線を上げる。
「これ? 単純に仕事で見栄えするのと、割れたり擦ったりすると痛いから保護しときたいんスよ。 あ、料理する時は切ってるんで」
その言葉にさなえは首を傾げた。 料理の前に律儀に切っているのは知っている。 長く加工したままの人もいるのにちゃんとしているなぁ、と関心した覚えがあるからだ。
だが、爪自体が割れたり擦ったりしても痛みはない。 痛みが出るならそれは指自体が傷ついたときだ。 そして今、その爪は保護されている。
「痛い、ってことは…… 指を怪我しちゃってる?」
アッシュの指先、黒や白が混ざらない真っ赤なエナメルカラーが光るそれに触れようと伸ばした手は、しかし逆に掴まれる。
「今爪伸びてて危ねぇから。 ……さなえちゃん、急に爪になんか当たってゾワってなることない? 爪って血管も神経もあるし。 これ狼系だけなんスかね」
人間の爪には感覚器も神経もないが、犬や猫にはある。 飼っている友人が「爪切りが大変」と嘆きと自慢の間のような話をしているのを聞いたことがあるが、さなえはその話題を避けた。 狼系の種族であるアッシュに犬や猫と一緒だね、と言うことは、ヒトである自分と猿のパーツを同じ、とすることと変わらない。
雑にまとめて比較するのは、己に対する以上に自由な獣である狼には挑発だ。 だから黙って、自分のことを言う。
「んー、爪には感覚、ないかなぁ。 深爪しても痛いのは指だし。 でもそれだとアッシュくん、爪切り大変だ」
さなえは、ねぇ、と自分を掴んだ手、その指を受け止めて、過保護だなぁ、と苦笑する。 今さら爪が当たった程度で慌てたりはしないのだけれど、
……その割に結構気軽に触ってくるよね。
嫌なわけではない。 不意な接触の瞬間は多少緊張するが、例えば歩いているとき、買い物しているとき、料理しているとき、とにかく自然に──触っている本人も意識していないのでは、という程度には体に手が触れるのでいい加減もう慣れた。
最近はその感覚が来ると、結構体温高いなぁとか手が大きいなぁとか、意外と肌柔らかいなぁとか関節骨っぽいなぁとか頭の中で右から左に感想が流れていくが、
「さなえちゃんオレのことすげー触るよね」
「え!? 逆だよ!?」
真逆が不意打ちで相手から飛んできて、さなえは思わず顔を跳ねあげた。 ちょっと待って、と記憶を辿り、今だって手に触れているのはアッシュに掴まれたからで、でもそれはまず自分が手を伸ばしたから、で。
「逆……、そっスか」
そうそう、ときっかけに気付かれないようオーバー気味に頭を上下させるさなえに対し、アッシュは笑う。 長い前髪に覆われた目元こそ見えないが、しかし確かに口元に形作られるのは笑みだ。
うん、と口角を上げて一言。
「そういうことにしとこっか」
「あれ?!」

目の前で己の手を握ったままぐるぐるしているさなえを眺めると、アッシュはちょっとダルいなと感じていたレシピ工程の面倒さをすべて忘れるくらい晴れやかな心持ちになった。 今なら炭火を起こして北京ダックも作るし文句も言わずにテンパリングの温度管理もこなせるだろう。
一度頷き、相手に預けた手はそのまま、反対の手は頬に当て、笑みを濃くする。
「やっぱり可愛いっスねぇ」
「なんの納得なのかなっ」
「それはオレが分かってればいいっス。 ……聞きたいなら言うけど」
「ちょっと待って……!」
黒に近い焦げ茶のふわりと巻いた長い髪、それを耳に掛けて留めるゴールドのピンがよく映える。 首元を覆う白のマフラーと薄いアイボリーのトップスは無地で装飾もないものだが、生地の質と体型に添うパターンの上品さが見て取れた。 シンプルで一見なんということはないアイテムだからこそ、検討と試着を重ねて自分に合うひとつを選んだのだろう。
全体として主張するような色の強さや派手さはないが、さなえの穏やかで優しい、ふわりと柔らかなイメージにぴったりのコーディネートだ。
つまり可愛い。 すげぇ似合ってて超可愛い。

アッシュとしてはさなえにいいところを伝える準備は万事万全だが、いかんせん彼女が毎度大体二フレーズ目くらいで顔を真っ赤にして逃げて隠れるので黙っていた。 小ウサギのようなその様子も可愛いので見つけられないことにしているが、狼からは逃げられないと、そう気が付くのはいつになるだろうか。
本人としてはこちらに慣れたつもりでいるらしいさなえに、もうちょい慣れてほしいけど、と頭の中で呟くが、狼は持久力も得意だ。 この状況段階は料理と同じ、すなわち煮込むならどんなに気になっても蓋を開けずに弱火でじっと待つのがいいと、そういうことだ。
だから待つ。 そう決めたアッシュは目線を落とし、己の手と風貌を確認する。
少し濃い肌色と鮮明な赤の爪、白いシャツはコントラストが強く、どうやっても派手さがあることは理解している。それを狙ってやっていることも事実だが。

「そもそも、この爪の色って合ってんスかね。 オレそういうの分かんなくて」
問われ、引き続き握ったままのアッシュの手を揉んだりさすったりしていたさなえは改めてじっと観察した。
「んー……合ってる、と思うよ? それに好きな色で楽しむのが一番だから、こういうのって」
はっきりとした色合いの肌を持つアッシュには、それに負けない強い色が合う。だから他の色が混ざらない原色という選択は非常に馴染む、バランスの取れた配色だろう。
だがそれ以上に、好きな色があるならそれが一番いい。 好きな色が似合う色、とさなえは親友──リエがよく言っているのが好きで、自分もそういう基準で選ぼうとしているからだ。
反面、聞いていたアッシュはあまり得心していない様子だった。 さなえに預けていない手を裏表に返しつつ、そっか、と呟く。
「これ、爪に塗るの探してたらうちのベースが寄越してきた色なんスよ。 キミこれでしょ、って」
「スマイルくん? ネイルのイメージ全然なかった」
「プラモの塗装と一緒って、結構好きみたいスよ。 全然人前出ないし、出てきても全身隠してるし見えないしで分かりにくいけど」
正体不明を自ら演出しているような怪しさ満点の青いベーシストの姿を思い出し、でも、とさなえは言葉を拾って続ける。
「いい人だよね。 この前、私が待ち合わせ場所に電車間違えて遅れちゃった時、アッシュくん鬼電してくれたでしょ」
「あー。 した。 いやするよそれは。心配で」
「うん、でも電車の中だから出られなくて、多分これ怒ってないけど怒ってたらどうしようって向かってたら途中スマイルくんがいて。 履歴見せてこれ怒ってるかなって聞いたら「めちゃくちゃ心配してるだけだから早く折り返して」って言って、すぐ見えなくなっちゃったからお礼、言えなかったんだけど」
「そうだったんスか」
彼女が友人と遭遇していたことより、人見知りの気がある透明人間がよく話せたな、とアッシュはむしろそちらに感心してしまった。
「礼ならオレから言っとくんで、気にしなくていいスよ」
「そ、そう? ありがとう。 それでね? その時、スマイルくんはすごくアッシュくんのこと分かってるんだなーって思って。 そのネイルの色も合ってるし」

己を理解してくれる友人の存在は貴重だ。さなえにとってのリエがそれで、遊びたいときに付き合ってくれて、旅行で思い出を作って、洋服やプレゼントの選択では何度も頼り、助けてもらっている。
だからアッシュにもそういう存在がいることは喜ばしい。 その手を彩る色彩が似合っていて、素敵だし、嬉しい。
そのはずだった。

……あれ。

ほんの少し、何か、気になった。 それは喉の奥にほんの小さな小骨が刺さったような、そんな違和感。
きっかけも原因も自分にあるはずなのに、何によるものか、どうしてなのか分からない。 だがそんなことを相手に告げて困惑させるのは違う、と軽く頭を振って切り替える。
「いいよね、そういうの」

さなえの言葉を聞いて、アッシュは思案した。
今の話と微妙な沈黙、その意図を総合すると、自分とスマイルの関係を若干誇張して受け止めてないだろうか、と。
もちろんどんな思想も自由だ。 干渉はしない。 しないが、さなえは曲がりなりにも己とお付き合いをしているわけで、狼である己はつがいを大切にする生き物だ。
だから相手との間に認識の齟齬が生じているなら、早期に正しておいたほうがいい。
広大で厳しい大地を生きる狼は慎重だが、機があれば見誤ることはない。 本能が示す直感に従い、行動する。

「さなえちゃん」
「ん、なに?」
「言葉通りの、裏のない表現だと思ってフラットな感情で聞いてほしいんスけど」
一息。
「スマイルってオレたちのこと大好きで」
「えっ」
突然、想像もしていない方向から爆弾が投げ込まれてさなえは硬直した。 体が緊張し、力が入るのが分かる。
アッシュが他者の好意を絡めた冗談を言う人ではないと知っている。 だからこそ、その発言の意図を把握しきれず浮かび上がる困惑の感情が隠せない。 加えてこちらは小骨のような違和感を抱えたままで、急にそんな話をするのはどういうことなんだろう、と脳の整理が追い付かなくて。
だから聞いた。 聞かなければ、と。
「それは……私に受け止められる話、かな」
前を見る。

「ごめんもうちょっと聞いて」
予想以上に深刻な雰囲気で受け止めたらしいさなえを見て、アッシュは言葉の選択を誤ったことを瞬時に理解し、話の流れを正す会話にシフトする。
──誤解生みそうだから言葉選んだけど、むしろガチ感出たな。
慎重に行って事故になったら手に負えない。 普通に話せばよかった、と次に選択する言葉は何が適切かを思案し、決定した。
「えーっと、推し……、みたいな感じ? 知らない間に音源全部買ってるし。 渡してるのに」
そういう話か、と目の前の少女はいったん納得したらしい。 触れたままの手が感じ取っていた緊張は解けたのか息を吐いて脱力しており、アッシュも軌道修正が叶った、と安堵した。
「普段は普通っスけど、音楽やってるときが気に入ってんのかな。 練習でも近付いて来ないから何してんのって聞くと「ボクは推しの近くに存在するより壁とか空気になって眺めていたいタイプのオタクなんだよね」って透けるし」
「見てるとそんな感じ……、ないよね? 意外、かも」
「そこはあいつもプロだから。 やる時はそういう雑念全部捨ててちゃんとやるんスよ、その切り替えも込みでちょっと怖ぇなってたまに思うけど」
……隙見せると即刺してくるタイプのオタクなんだよな。
甘いことやってると容赦なく指摘が飛んでくる。 好きだから全肯定ではなく、根底にあるイケてるから好き、という態度は一貫していて、
「いい意味で観客目線忘れないっつーか、よく見てるんスよ。 「これ」って選ぶのが外れないのもそれでかな」

その声で、さなえは理解した。 一体何が己に刺さっていたのかを。
不安だ。
自分には分かるだろうか、と。 その手に似合う色を、知っているだろうか。
それが不安だった。

だが、正体が判明したとして、払拭されるわけではない。 身の内に存在する確かなものは変わらず不安で、つまり自信がないままなのも変わらない。
何かを渡すのも渡されるのも、まず己に自信がないとできないことだ。
でも、とまぶたを伏せる。 少なくとも目の前のこの人は、待ってくれている。 自分が受け止めきれないものは差し出さず、こちらが逃げ出さなくなるまで──受け入れられるようになるまで。
それは分かる。だから応じる。
ずっと触れていた手を己の両手と絡ませ、包み込むように固定して引き寄せる。
「アッシュくん!」
「おわ、えっ、何?」
身の内の揺らぎも震えも認め、抱えたまま、しかし反射と勢いでその名を呼んだ。
仕掛けた意表と結果、相手が驚いた声が耳に届き、その事実に口の線は弧を描く。
いつもはすぐに驚いてしまう自分からの意趣返しが通った、と。
──うん。
まず一つ。 大切なのは最初の足を踏み出すこと。
不足は多いが、通した、という事実は確かだ。 それは経験値となり、成功体験として自信へと結びつく。
だから続ける。
「お買い物、行こ? 今、これから」
「ああ、全然いいけど、どこ行くの」
「えーっと、決めてないんだけど……」
落ち着いて、とさなえは意識して一度呼吸した。 血管の音か心臓の音か、鼓動がうるさいくらいに体内から直接響く。
緊張で固まりそうな中、両腕で包んだ彼の手をもう一度確かめるようになぞり、その混じり気のない赤で飾る爪先に触れた。爪にも感覚があるという狼には、それが意図的だとその感覚で理解しただろう。
心配しないで、大丈夫、と伝えたいのだ。焦らず、確かに。 ゆっくりと、自分の速度で。
首から上、顔の中央に熱を感じながら、言った。

「アッシュくんに似合う色、私も見つけたいなーって!」
「──そりゃ、喜んで」
頬を覆う薄い皮膚に透けて現れるのは、血の赤だった。

作成日 2024/1/7(Sun)
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