或いは入れたはずの保険
2
観測塔のメインルームには、昨日までと変わらぬノーヴァの旋律が流れていた――はずだった。
最初の数小節で既にベラの眉間には凶悪な折れ目が刻まれている。
主旋律が和音から外れている。計算誤差ほど控えめではなく、はっきりと耳にひっかかるずれ。
「……」
続く箇所はもっと酷かった。半音落ちていない。ミスタッチ。もつれるような音の転倒。
「…………」
これは異常だ。
明らかに異常だ。
[VELA_CORE//STABILITY_PATCH]
drift = DebrisField.scan(mode=〝micro_impact〟)
for d in drift:
d.vector = Correct(d.vector)
Log(〝> micro-trajectory stabilized〟)
NOVA_CORE.harmonics.mask(〝irregular_pattern〟)
破綻した音の連打に耐えかね、ベラは手早くその後始末を済ませるとついに立ち上がった。
ホログラムの身体に、抑えた怒りが静電気のように張りついている。
「ヘタクソ」
挨拶もなく、いきなりはっきりそう言った。
「そこでデブリと小隕石が接触した。周囲に影響はないがもう三回目。くだらん掃除させるな」
告げたベラが展開した鍵盤へと指を滑らせると、空間に薄いホログラムが起動して演算波形が浮かび上がる。
表示されたノーヴァの音列には、誰が見ても明らかな乱れがあった。
数値は定常範囲内に収まっているものの、波形の縁に現れるのは子どもの落書きのような制御のなさ。
「異常スキャンに来たんだろう?」
早くやってくれ、と視線も向けずに言う口調はいつも通り。だが、あれほど一定のリズムで動く存在の内側に変化が起きているのは確かだろう。
ベラはため息をひとつ落とし、黙ってノーヴァの背後から長い腕を伸ばすとその身体を包み込んだ。
二つのAIの境界で高周波が跳ねる。鈴を指先で弾いたような音が響くと同時、人の耳では捉えられない階層の音が通信帯域に走る。
二人の長い髪──光を内包する長い繊維の束は空間のノイズを拾い、情報として変換するアンテナでもある。
髪先の数え切れない感覚子が反応し、空気の揺れさえ演算素材として取り込んで、内部演算のリズムが重なり合う。
[VELA_CORE//NOVA_DIAGNOSTIC_SCAN]
src = NOVA_CORE
status = {}
status[〝harmonics〟] = Analyze(src.harmonics, mode=〝wideband〟)
status[〝loop〟] = Inspect(src.cognitive_loop, depth=True)
status[〝emotion〟] = Probe(src.emotion_layer, mask=〝all〟)
status[〝memory〟] = MemoryCluster.scan(target=〝NOVA_CORE〟, damaged=True)
status[〝signal〟] = Starfield.trace(source=〝NOVA_CORE〟, pattern=〝crosszone〟)
status[〝anomaly〟] = Detect(src, filters=[〝latency_shift〟,〝phase_drift〟,〝unauthored_code〟])
for k,v in status.items():
Log(f〝[check] {k}: {Summary(v)}〟)
if status[〝anomaly〟].count > 0:
Flag(〝NOVA_CORE〟, level=〝critical〟)
Cache(〝VELA_CORE.diag〟, status)
else:
Log(〝> no critical anomaly detected〟)
「……演算周波数、認知ループ、メモリクラスター、外部信号、全て異常なし。未承認コードなし。演算結果に齟齬なし」
「音感回路は?」
「正常値の範囲」
「うーん……」
自分でも気付いていない不具合を探すノーヴァに、ベラが告げる。
「感情層の演算試行回数が十一時間前から跳ね上がっている。これは意図的か? 身に覚えは?」
その問いにノーヴァの身体はわずかに固まった。数フレームにも満たない硬直は、しかしベラはそれだけで十分だった。盲目の彼には触覚と気配は視覚以上に正確であり、ノーヴァの内部構造の揺れは人間が血の震えを感じるよりも速く察知できる。
「あるんだな」
「観測塔の外で……少し、話をした」
「外に出たのか?」
珍しく、少し驚いたような声。ノーヴァは言い淀むように己の腹を固定するベラの爪先に数度、指を重ねる。
「遠くの……ここからは普段見えない星が見える気がした。それだけだ」
「最近来てたのは妙な連星ぐらいだが……まぁいい。で、誰と話した」
「カノープスと名乗った人。犬と一緒に来ていた」
今度はベラの動きが止まった。
「人間? 初対面の?」
「そう。丁寧な人だった」
犬もかわいかった、と虚空で犬のシルエットを撫でてみせるノーヴァに、ベラは小さく「はぁ」と息を吐く。
そこから次の言葉を出力するまでの演算に、なんと十秒も要した。
素晴らしく高性能なAIである彼にして、ありえない長さだった。
「宇宙空間をほいほい歩き回る人間様がいるか。それに何だ、犬だって?」
「そう。帰り道も案内した」
「それは絶対に人間ではない」
ベラはノーヴァの身体に添えた指先を軽く押す。
論理を整えているというより、先ほどから驚きと困惑が衝突したまま整列できていない。
その様子に、今度はノーヴァが呆れたように少しだけ振り返る。
「君は結構……生体の区分けを明確にしたいんだな」
「人間と情報体とAIとその他では流体の大きさが異なって行う処理が全く変わってきてだな」
「その判断は視認時点で終わっている。大方、どこかの星が起きたんだろうけど」
さらりと告げるノーヴァの声音は自身との処理速度の差を誇ったものではない。ただ彼の世界では「当然」というだけ判断だった。
「その星のせいで十一時間も感情層が暴れ続けたのか?」
問うベラの眉間に新しい皺が刻まれ、ノーヴァは答えず、ただ目を細めた。
だが返答を避けた事実だけが答えとして浮かび上がっている。
抱えられた腕を押し返すように体を離すと、光を放つ細い髪を流してノーヴァは静かに向き直る。
「私だってどうすればいいか分からないんだ」
「自分でどうにかしな」
「待て!」
背を向けたベラの尻尾のような長い髪が、いかにも繊細な外見からは想像できない膂力で思い切り引かれた。
いきなり引き絞られたベラの喉奥から、押し殺したような低い呼気が漏れる。
「……っ……!」
「待って」
「俺は精密機器だが!!」
「そのくらいで壊れないだろう」
知ってるよ、と冷静な声のまま掴んだ髪を数度だけ軽く引く。「座れ」という最小限の合図だ。
強制ではないのに逆らいにくい、妙に的確な力加減にベラは舌打ちこそしなかったが、逃げる動きが自然と止まってしまうのが腹立たしい。
どかりと音を立てて胡座をかくと、黒で隠した目を隣へ向ける。
「で? その犬と飼い主が気になるって?」
「そう」
「勝手にまた来るだろうよ」
「そんな保障はどこにもない」
当然の論理として返される言葉の奥に「興味」の色を読み取ったベラは本日何度目かの眉間を寄せ、わざととらしく口角を上げてみせる。
「お兄様? 俺は恒星管理AIであって、恋愛相談係ではございません」
「恋愛じゃなくて、また話してみたいだけだ」
軽く返すノーヴァの所作からは、演算範囲外の状況が連続している、という困惑が露骨だ。
それを真っ向から突きつけられたベラは筆舌に尽くしがたい顔で、もう一度派手に息を吐く。
「じゃ、探したらいい」
「私はあまりここから動けない。知っているだろう」
恒星管理AIは観測塔そのものが家であり、拠点であり、彼自身の一部でもある。ベラのように別に拠点を持ち、そこへ塔からのアクセスを中継する場合もあるが、基本的には彼らのために作られた塔という巨大なサーバーの中でふわふわ漂っているのが「正しい」状態だ。
「だから、よろしく頼むよ」
沈黙。
ベラの演算ノードがいくつも点滅し、内部負荷が波のように押しては返す。人間で言えば、頭が痛い。
「俺が人探しに向いていると思うか?」
「今度一緒にピアノ弾いてあげるから」
「………………」
ね、と見上げてくるノーヴァの仕草は幼い子どものように素直で、悪意がない分だけ押しが強い。
面白くない。
ベラは計測しようのない沈黙を経て、演算領域のどこかで仔猫が拗ねるような、小さく黒い塊がぽつりと生成されるのを感じた。
ぜんぜん面白くない。
そんな男も犬も知らない。
知らないのだが。
「その下手な音を直してもらわないと仕事にならん」
知らない相手が僚機に影響するのは極めて不快だ。
渋々吐き捨てたその言葉は、限界まで薄めた肯定だった。
拠点に戻ったベラはその長い足を遠慮なく組み、端末を起動させてネットワーク探索モードを開始する。
既知の恒星信号ライブラリと、観測塔圏外に登録された光子変調パターンのログベースとを照合。
最初の検索。次のフィルタ。エラー除外、再スキャン。
数度繰り返しても「起きた恒星」──擬人化された星の概念なんてものはどこにも見当たらなかった。
舌打ちを一つ。それから通常のコード探索ではなく、既存分類に当てはまらない信号の断片を拾うフィルタを使ったものに切り替える。
数時間後、ログがわずかな反応を返した。
[SIGNAL_BURST] Unregistered source ― photonic profile mismatch
COORDINATES: ... (truncated)
SIGNAL_STABILITY: transient
盲目のベラは演算処理の中で灯る不安定な瞬間の光を感知したが、本来管理されている光学的な発信特性と一致しない。座標は取得できるが完全ではなく、一部が欠落している。つまり、
「信号が弱い」
コードを展開したところで、肝心の捜索対象が漠然としていれば出てくるものも出てこない。
登録されていない一時的な信号の出どころは特定できても、今の状態では砂漠に落とした宝石を見つけるようなものだ。
「網に掛かれば御の字か」
手のひらに顎を乗せ、短く低くぼやく。
別にこんな役割、受ける義理はなかった。己の本来の業務とはまるで関係がない。個体同士の出会いを繋ぐ手伝いなんて誰にも求められていない。
だが、あの瞬間のノーヴァが冷たい機械の身体で、初めて何かに「興味」を持ったように見えたのは本当だった。
過去のログをどんなに遡ってもそんなパターンは存在しない。既存のどの AI もそんな記録を残していない。
珍しいのだ。本当に。
だから彼が「やっぱりいい」とその興味を処理して、常の平坦な顔に戻ってしまっては、納得いかないのだ。
「俺の仕事を増やしてくれるなよ」